欺かれた人々の日

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  第10話 欺かれた人々の日  


ベルサイユのこじんまりとした城館は、色づいた木々に囲まれ、
透き通るような空気の中に、朝の光が煙りながら差し込んでいた。
小さな黒い馬車が、砂利を軋ませ到着すると、
馬車から鮮やかな緋色の長衣の枢機卿が降り立った。
枢機卿は、凍り付いた床に足音を反響させながら、
誰もいない回廊を歩き、突き当りの大広間へと向かっていた。
大広間の椅子にルイ十三世がひとり座っていた。
ルイ十三世は振り返った。
「リシュリューか。こちらに参れ。」
国王は自ら、枢機卿に着席を促した。
「昨日は、母上が早まったことをした。そちの考えを聞きたい」
朝の白い光の中で、一瞬の間空気が緩み、枢機卿は安堵の吐息をついた。
「誠にかたじけなきお言葉にございます」
そして、いずまいを正すと静かに口を開いた。
「恐れながら申しあげます。我がフランス王国は、ピレネーの南、南ネーデルランド、ブルゴーニュ公国と、三方をハプスブルグの領土に囲まれております。このところ、フェリペ四世は、ベアルン南部三州の割譲に執着を見せています。しかしながら、アルマダ海戦の敗北来、ハプスブルグ家は既に落日の身、北部ネーデルランドでは反乱がおきています。同じ旧教徒国とはいえ、心を許す相手ではありますまい」
「三方から攻め込まれる可能性もあるということだな」
国王は頷いた。
「さようでございます。このたびのボヘミアの内乱への介入は、フランス国境付近への注意をそらし、国土が戦場になるのを事前に防ぐことにもなるのです」
「しかし、リシュリュー。熱心な旧教徒の貴族や将軍が黙ってはおらぬぞ」
「陛下。今や信仰よりも勢力均衡の方が重要でございます」
リシュリューは、迷わずに続けた。
「憚りながら、陛下。私は下級貴族の三男坊に生まれ、幼いころから軍人になるのだと言い聞かせられました。兄が聖職者にならなかった為に、私が代わりに司教職を継ぐことになりました。もはや宗教とはそのようなものでございます。信心の為に血を流した過去は、アンリ大王の偉大な勅令で終止符を打ちました。我々が成すべきことは、過去を繰り返すことではなく、過去を乗り越えていくことでございます。私は、陛下のお母君、マリー・ド・メディシス殿下にはひとかたならぬご寵愛を受けました。しかし、それは過去のこと。新しい時代は新しい秩序と理性によって作られねばなりません」
ルイ十三世はしばらく黙りこくった。
メディチ家の濃い輪郭線と力強い顔貌に、ナヴァール家の淡い瞳の色、
そして青年らしい血色の良さに、どこか繊細さと儚さが加わっていた。
「父上は名君との誉れ高い国王だった。余もいつしか父を超えることができるのだろうか」
国王はふと遠い目をして呟いた。
「陛下という主君にお仕えできたことを思えば、このリシュリュー、今この場で八つ裂きの刑に処せられても悔いはございません」
リシュリューは目を伏せて答えた。
国王は、ゆっくりと文机まで歩くと、ペンを取り出し紙に何やらしたためた。
「リシュリュー、そちを余の最高顧問官に任ずる。それからこのたびの謀反の首謀者たちを処罰せよ……」
国王は、言葉を言い終えるとペンを置いた。
大広間の緞帳の向こうでは、雲の切れ目から太陽が今輝きを放ち始めようとし、
やがて、フランスの黄金時代の幕が開けようとしていた。


モー街道は、旅行者や巡礼者の行列、諸国の物産を積んだ馬車の往来でごった返していた。
街道沿いの教会の正午の鐘が鳴った。
ロシュフォール伯爵は、崩れた教会の壁ぞいに身を隠しながら、
行き来する馬車を事細かに伺っていた。
「来たか」
そのとき、メディチ家の紋章の入った小さな黒い馬車が、
街道沿いのポプラの並木の間に停車した。
「マリー・ド・メディシスの馬車だ……」
ロシュフォールは、近くで待機していた護衛隊士に耳打ちした。
紋章入りの馬車は、窓を黒い布で覆われた、粗末な木組みの二頭立ての馬車に隙間なく横付けした。やがて、馬車の扉が開くと、羽根飾りの黒い帽子をかぶった婦人がちらりと見え、隣の馬車に飛び移った。
婦人の顔は黒いヴェールで覆われていた。
婦人を乗せた二頭立ての馬車は静かに出発した。
「あの馬車を追え! 謀反人どもを捕えれば、リシュリュー閣下は、政界に返り咲くことができるのだぁぁぁ!」
ロシュフォール伯爵は叫んだ。
護衛隊士たちの馬は一斉に走り出した。

逃亡者の馬車は急に速度を速めた。
モー街道の粗い敷石に、ときどき車輪を飛び跳ねさせながらも、二頭の馬を狂ったように走らせる。
ロシュフォールと護衛隊士たちの馬はその距離を次第に縮めていった。
「撃てぇぇぇぇ!」
ロシュフォールの叫び声と共に、マスケット銃が一斉に火を噴いた。
車輪の一つが取れ、コロコロと転がって行った。
「撃てぇぇぇぇ!!」
もう一度、護衛隊士たちのマスケット銃が火を噴いた。
馬車は、後部の壁にあちこち被弾し、もうひとつの車輪が外れて急に止まった。
護衛隊士は、馬から降りて馬車を取り囲んだ。
「観念なされい」
ロシュフォール伯爵は、足で馬車の扉を蹴破った。
破れた扉から、黒いヴェールの婦人が姿を現した。
女はヴェールを取り外した。
それは<白い蝶>だった。
「<白い蝶>逮捕!」
やけになったロッシュフォールが叫ぶと、護衛隊士たちが一斉に間諜を取り囲み捕縛した。


日が高くなったリュクサンブール宮殿のルーベンスの回廊では。
「太后殿下。これで、晴れてイタリア方面最高司令官として明日パリを出発いたします」
晴れやかな顔のマリヤック元帥は、マリー・ド・メディシスに拝謁していた。
「もうパリの貴族たちはリシュリューに怯える必要はないわけです」
隣にいる兄のマリヤック公爵も、満足げに言葉を続けた。
「じきに諮問会議で発表があるでしょう。そなたを宰相にという内約も陛下にとりつけました」
マリー・ド・メディシスも、穏やかな溜息をもらした。
「できるだけ早く公表するよう、陛下に進言せねば」
そのとき、急に宮殿の外が馬の蹄鉄の音で騒がしくなった。
「何ごとでしょう?」
回廊に軍靴が鳴り響く。
そのとき、緞帳がさっと開き、入ってきたのはトレヴィル隊長だった。
「トレヴィル……何の用です?」
マリー・ド・メディシスはただならぬ雰囲気に表情をこわばらせた。
トレヴィル隊長は、前に進み出ると太后の前に膝をつき、重々しく口を開いた。
「恐れながら、マリー・ド・メディシス太后殿下。陛下のご決定を申し上げに来ました」
「決定?」
「殿下を、コンピエーニュの城に護送するようにと仰せです」
マリー・ド・メディシスは、さっと青ざめた。
「それから、ミシェル・ド・マリヤック公爵殿とルイ・ド・マリヤック元帥殿は、オーベルニュの自領にて蟄居のこと」
「トレヴィル、これはどういうことです?」
語気荒くなった母后を前に、トレヴィル隊長は目を伏せた。
「マダム。ご承諾を。国王陛下のご命令であらせられます……」
しばらく沈黙が続いた。
やがて全てを理解したマリー・ド・メディシスは厳かに口を開いた。
「死も苦しみも甘んじて受け入れましょう。私はフランスの王妃ですから」
マリヤック兄弟が剣帯を外すと、銃士隊の制服を着たアトスとポルトスがそれを受け取り、隣に付き添った。
トレヴィル隊長に導かれ、銃士隊に囲まれた首謀者たちは、沈黙のまま宮殿を後にした。
残されたルーベンスのマリー・ド・メディシスの連作が、
誰一人いないがらんどうの大回廊で、虚しく過去の栄華を物語っていた。



サン・タントワーヌ通りを走る囚人護送馬車の中では、後ろ手で縛られた<白い蝶>が乗せられていた。
「閣下の御前で謀反人どもの計画を洗いざらい 話してもらうからな」
ロシュフォール伯爵は、腕を組み足を組みつつ、囚人を横目で見た。
<白い蝶>は顔色ひとつ変えなかった。
馬車は、枢機卿宮殿近くの坂道を登って行った。
そのとき、麦藁を山のように積み込んだ、大型の幌馬車が反対方向から全速力で向かって来た。
「おーい、ぶつかるぞ!」
御者は、思わず叫んだ。
「ん、?」
ロシュフォールが、思わず馬車の窓から顔を出した直後、幌馬車は速度を落とす気配もなく、囚人護送馬車に正面からぶつかった。
護送馬車は瞬く間に大破し、幌馬車の積み藁が上から雨あられのように降ってきた。
ロシュフォール伯爵と<白い蝶>は間一髪で車外に投げ出された。
「おい。誰だ!あぶねえじゃねえか!」
「ロシュフォール、僕だよ」
伯爵が振り返ると、幌馬車の御者台からダルタニャンが降りてきた。
「悪いけど、その囚人は陛下の逮捕状が出てるんだ。さ、行こう」
数名の銃士たちが幌馬車の後部から降り、縛られたままの囚人を幌馬車に乗せた。
「じゃ、また」
ロシュフォールがあっけにとられている間に、御者台のダルタニャンは馬に鞭を当てた。
「くっそぉぉぉぉぉ。おのれ、銃士隊――――!」
残されたロシュフォール伯爵は、足を踏み鳴らしながら悔しがった。
壊れた馬車に降り積もった麦藁が、伯爵の頭のうえにバラバラと落ちてきた。

幌馬車は、銃士隊の詰所の中庭に到着した。
ダルタニャンは、捕縛した<白い蝶>を連れて、詰所の階段を上がり、トレヴィル隊長の執務室の扉をノックした。
「<白い蝶>を逮捕しました」
「入れ」
隊長は、囚人を部屋の中に入れた。
そして、ダルタニャンが挨拶して去った後、誰も付近にいないことを確認すると、部屋の扉に鍵をかけ、窓のカーテンを閉めた。
そして、懐から短刀を取り出すと、女スパイを縛っていた縄を切った。
「ご苦労だった。では、報告を聞こう」
トレヴィルは机の前で重々しくうなずいた。
両手の自由を得た<白い蝶>は、羽根付の黒い帽子をとると、金髪が束になってこぼれ落ちた。
そして、顔につけていた黒いマスクを外した。
「隊長のご命令通り、太后殿下をお守りいたしました」
アラミスは答えた。



枢機卿宮殿の中庭では、護衛隊の閲兵が行われていた。
「右向け、右! 抜刀!」」
ジュサック隊長が勢いよく声をかけると、赤い制服の護衛隊士は一斉に剣を抜いた。
「リシュリュー閣下は明日からまた謁見だ。全て元通り……」
ロシュフォール伯爵がやって来て、ジュサックに声をかけた。
中庭の噴水に止まっていた鳩がバタバタと飛び立った。
そのとき、門の前に馬車が停まり、中から赤いドレスを着た貴婦人が降りてきた。
「いたわ!」
貴婦人は、手を振ると、帽子をとって駆け寄ってきた。
満面の笑みを浮かべ、小さな女の子の手をひいていた。
「おい、ジュサック。見ろよ。あれはシャルロットさんじゃねえか」
ロシュフォールは隣のジュサックをこづいた。
振り返ったジュサックの目に映ったのは、駆け寄って来るシャルロットの姿だった。
「これは夢だ…・」
ジュサックは呟いた。
「シャルロットさんが私を?」
シャルロットは走り寄った。
「シャルロットさぁぁぁん……」
ジュサックは受け止めようと両手を広げた。

そして、そのままジュサックの傍らを通り過ぎると、
後ろにいた背の高い護衛隊士に抱き付いた。
「……え?」
ジュサックとロシュフォールは同時に振り返った。
「シャルロット、ついにパリに来てくれたんだね!」
護衛隊士ビカラは、新しい妻と娘を抱き留めた。
「あなた!」
「お父様!」
「ははははは、もう大丈夫だ」
そして、三人は抱き合いながらくるくるとその場を回った。
「隊長、ご報告が遅れました。私ビカラは本日よりこちらのシャルロット嬢と結婚します!」
ビカラはジュサック隊長に向きなおった。
「ノルマンディーに五回もプロポーズに通って良かった――!」
ビカラは嬉しそうにガッツポーズをした。

「ううぅ…ううぅ……」
「泣くな、ジュサック」
ロシュフォールは男泣きのジュサックの肩を抱いた
「いいじゃないか。またリシュリュー閣下一筋にお仕えするんだ」
「ぐすっ。も、もう、恋なんてしません……」


銃士隊の詰所では。
葉が全て落ちたプラタナスの木の枝が、針の様に灰色の空に伸びていた。
「ただいま。みんな。一か月ぶりだ」
アラミスは茶色いマントの旅装のまま、銃士たちの共同待合室に入ってきた。
「よう。アラミス、お帰り」
ポルトスは両手を広げて抱擁した。
「これ、お土産。ルーアンの林檎酒」
アラミスは陶器のボトルを机の上に置いた。
「ルーアンはどうだったか?」
アトスは読んでいた本から目を上げて聞いた。
「どうにもこうにも…訛りがひどくてさ。一か月間殆どまともに口が聞けなかった」
アラミスはマントを脱いで、右手の手袋を外そうとした。
「あれ、アラミスその手どうしたんだい?」
ダルタニャンはアラミスの右手首に巻かれた包帯に気づいた。
「ああ、これ?」
アラミスは慌てて手袋をはめなおした。
「……これはね、ルーアンの道端で酔っ払いに絡まれたんだ。そのときだ」
アトスは本の頁の向こうから、その包帯の麻布のハンカチをしばらく見つめていた。
「さてと、昼飯は終わり。午後の仕事だ」
ダルタニャンとポルトスは立ち上がった。
二人が出て行った後、アトスも席を立った。
戸口に行きかけて、ふと思い出したように引き返した。
「そうだ、これ、返すよ。君のだろう」
ポケットからペンダントを取り出して、テーブルの上に置いた。
「これは……!どこにあった?」
アラミスは狼狽したようにペンダントを手に取った。
「これは、だ……」
アトスはしばらく言葉を選んでいた。
「ルーアンの道端だ。恐らく酔っ払いに絡まれたときじゃないかな」
そして、そのまま扉をぱたんと閉めて出て行った。



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