欺かれた人々の日

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  第9話 11月10日  

朝もやに霞む太陽の光がまだ眠る街を冷たく照らし出し、サン・ジャック門の前では、鳩が次々と鳴いては飛び立った。
朝いちばんでパリに入城する、行商人らがまばらに歩き、果物や魚を入れた籠を運び込んでいた。
ジュサックは外套を分厚く着込み、麻袋に入れた荷物を背中に積んだ馬を引きながら、かじかんだ手に息を吐いた。
「何だ…あれは…!」
ジュサックは半分寝ぼけまなこの目をこすった。
サンジャック街道の向こうに黒い点々が遠く見え、
それは、徐々に近づくと騎馬の行列に姿を変えた。
ジュサックは馬の陰に顔を隠した。
武装した将兵らがぞくぞくと門の中に入っていった。
その先頭に立っていた人物を見て、ジュサックはあっと驚きの声をあげた。
「バッソンピエール元帥!」
「パリ市内に何故あんなに大量の軍隊が…?」
ジュサックは、軍隊の行列に気づかれないよう、馬に飛び乗り、拍車を入れると、今来た道を引き返した。

「オルレアン公ガストンがパリを出たと?」
朝の枢機卿の執務室では、リシュリューが怪訝そうに聞き返した。
「急きょナントに滞在予定だということです……」
「どういうことだ?」
リシュリューは眉間にしわを寄せながら、インク壺に羽根ペンを浸した。
「申し上げます。朝の謁見は取りやめと陛下のお達しです」
ルーブル宮殿からの伝令の声に、
リシュリューは思わず立ち上がった。
「マリー・ド・メディシス殿下の容体が悪化、陛下はリュクサンブール宮殿に
むかわれました」
「そのようなことは聞いていないぞ……」
「昨晩決まったことです」
リシュリューは幾分不穏気な雰囲気を察しつつも、
部屋の中を歩き回った。
「ずいぶん急なことだ…リュクサンブール宮殿に様子を見に行かせよ」
「ははっ」
伝令が出て行ってから、リシュリューは目を閉じるとまた椅子に腰かけた。

頭の中はここ数日来懸案事項の戦費調達の議決のことだった。
「反対派が騒ぎ出す前に何としてでも可決させねばならぬ……」
そして、机の上の分厚い書類の山にゆっくりと目を戻した。
昨日の未明に聞こえた笛の音の残響が、わずかに耳の中で繰り返されたように感じた。
「ミレディーは一体何故今頃助けを求めたのか……?」
リシュリューは、疑問を頭から振り払った。
個人の声にならない叫び声など、この大河の一滴にすぎないのだ。

「猊下、大変です!リュクサンブール宮殿は武装した兵士たちに囲まれています!」
リシュリューは思わず目をあげた。
「何だと?」
「中の様子は?誰がいるんだ?」
「それが……閣下。近づくことも難しく……」
リシュリューは額に手を当てぎりぎりと歯ぎしりをした。
「これは……陰謀か?」
机の上にバタンと手を置くと、その反動で、書類の山がバラバラと崩れて床に散らばった。
そのうちのひとつの書類にリシュリューは気付き、かがんでとりあげた。
「図面…リュクサンブール宮殿の庭園の地下水路の図面だ」
リシュリューは、その図面を取り出して、窓の光にかざした。
「工事の為の地下道が、庭園の外から宮殿の中に何本か通じている」
リシュリューは、図面を手に取って立ち上がった。
「馬車を出せ。リュクサンブール宮殿へは私一人で行く!」

「そこをどけ、ロシュフォール」
「閣下。ロシュフォール伯爵、お供つかまつります。」
ロシュフォール伯爵は廊下のリシュリューの前に立ちふさがった。
「ならん。ロシュフォール。お前はここに残れ。一人で行くと言っておる」
「嫌です。みすみす閣下を見殺しになぞできるものですか」
「そこをどけと言っているのだ!」
リシュリューはロシュフォールの手を振り払うと、しばらく黙り、そして優しい声音で言った。
「なあ、ロシュフォール。長年のそなたの忠誠、感謝している。だが、これが最後の命令になるかもしれん」
「……」
「私の机の二番目の引き出しにある書類を燃やしてくれ。そして、もし、私が帰らなかったときは、
リュソンの家族のもとへ、そこに入っている小箱を届けてほしい」
「閣下……」
「頼んだぞ」
リシュリューは静かにほほ笑むと、緋色の衣の裾を翻えし、廊下をずんずんと進んだ。
そして大きく息を吸い込むと、館中に届く大声で叫んだ
「馬車を出せ!。馬車を出せと言っているのだ!!」
「リ、リシュリュー閣下!かっかぁあぁぁぁぁぁあ!」
ロシュフォールの声が追いかけた。

「母上、ご容体が悪化したとしたと聞きました」
緊迫した空気の中、ルイ十三世は、リュクサンブール宮殿の
マりー・ド・メディシスの回廊に現れた。
「ずいぶんものものしい警戒ぶりではないですか」
ル十三世は、母親の傍らにマリヤック兄弟が立っていることを認めた。
「マリヤック公爵、マリヤック元帥殿まで。これはどういうことです?」
「私の老い先もそんなに長くはないわ。ルイ。今日は折り入ってお話があります」
マリー・ド・メディシスは、一通の書類を差し出した。
「これは…リシュリューの罷免状ではないですか」
ルイ十三世はきっとした声をあげた。
「リシュリューは私が全幅の信頼を置いている政治の教師でございます」
「陛下……民はもう戦争に倦んでおります」
マリヤック公爵は穏やかに口を開いた。
「ボヘミアの内乱に介入したとしても、そこから得られるものは、一体幾ばくのものでしょう?フランスの領地にはなりません。このたびのリシュリューが議決を通そうとした間接税の増税も、住民の負担を増すばかり。貴族の間でも不満は高まっております。国土を破壊と貧困に晒してまで、戦地で栄誉を飾ることに何の意味があるでしょうか」
「ルイ。あなたの父上、アンリ四世陛下が改宗したばかりの頃は、まだ従う貴族も少なかった。王権の礎は、熱心な旧教徒の貴族の支え無しには築いては来れませんでした。私の叔父のトスカナ大公を通じて、ローマ教皇とも良好な関係を維持してきました。リシュリューの決定は、これらの今まで培ってきた絆全てを破壊することになるのです」
マリー・ド・メディシスは、書類にペンを差しだし、サインを促した。
「さあ、考えてちょうだい」
「母上…しかしこのようなことは、この場で決めることはできません。諮問会議を開かねば」
ルイ十三世は首を振った。
「いいえ。ここで決めるのです。私をとるかリシュリューをとるか」
マリー・ド・メディシスの語調が強くなった。
そのとき、壁に架けられていた、マリー・ド・メディシスの肖像画の額縁が鈍い音を立てて開き、その奥に空間が現れた。
そこから出て来たのは、リシュリューだった。
「リシュリュー!何故そなたがここに?」
マリー・ド・メディシスは叫んだ。
「これは、皆さんお揃いで……」
リシュリューはしばらく状況が呑み込めず、青ざめた顔で立っていた。
そして、その場にルイ十三世だけでなくマリヤック兄弟がいることを即座に理解した。
「これは、何のはかりごとでしょう?」
「リシュリュー、控えなさい!」
マリー・ド・メディシスは叫んだ。
「私がいなけば、今のそなたは無かった……それ以上何を望むのですか!」
一瞬緊迫した空気がその場に流れた。
「全く仰せの通り……私の不徳と致すところでございます」
リシュリューは震える声で呟きながら、国王と太后に一礼して、退出した。

枢機卿宮殿の書斎では、ロシュフォールは暖炉の前にしゃがみ込み、
引き出しの中の書類を一束ずつ放り込んでは、燃やしていた。
そのとき、ロシュフォール伯爵は、急に外が騒がしくなったのに気付いた。
窓際に行ってみると、黒い人だかりが屋敷を取り囲んでいるがわかった。
「ん?……何だあれは?」
窓を開けると、どこからともなく矢が飛んできて、部屋の中の壁に突き刺さった。
ロシュフォールは慌ててよけつつも、窓を閉めた。
「うわぁ…軍隊じゃねえか!」
そのとき、廊下にバタバタと足音がして聞きなれた声が響いた。
「ロシュフォール様っ!大変です!」
旅装姿のジュサックが部屋に飛び込んで来た。
「バッソンピエール元帥率いる軍隊に取り囲まれてます」
「ジュサック……お前…戻ってきたのか……」
ロシュフォールは振り返った
「仲間を見捨てては行けないじゃないですかっ! 裏口から何とか潜り込めました……」
「この馬鹿野郎……!」
「ロシュフォール様っ……!」
二人の忠臣はしばし抱擁し合った。
「よし。護衛隊を全員定位置につかせろ。リシュリュー閣下が戻って来るまで一歩も敷地内に入れるな」

簡素な馬車が、包囲した兵士たちの間を縫って、枢機卿宮殿に横付けされ、
リシュリューが屋敷に戻ったのはその日の夕暮れ近くだった。
「リシュリュー閣下、お、お、お、おいたわしゅう……」
げっそりとやつれた様子の枢機卿に、ロシュフォール伯爵は駆け寄った。
「今日はどうやら命拾いをしたぞ。だが明日はわからぬ」
リシュリューは弱々しく呟いた。
「しばらく一人にしておいてくれ」

夜も更ける書斎で、リシュリューは赤々と燃える暖炉の前で、
火かき棒を回しながら、書類を燃やし続けていた。
炎の光が、憔悴が刻まれた顔の陰影を、くっきりと照らし出した。
「私の運命も所詮大河のひと滴に過ぎぬということだ……」
夜が白々と明ける頃、ひとりの使者が到着した。
「リシュリュー猊下。ルイ十三世陛下は早朝ベルサイユの城館で、閣下と二人だけで秘密の会談を持ちたいとのご希望です」
「陛下が?」
リシュリューは思わず聞き返した。
暖炉の中の燃え滓は、すでに青白い灰になっていた。
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