欺かれた人々の日

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  第8話 ジュサックの裏切り  


夜明けの白い月がうっすらと消えるころ、
空は東から赤く染まっていった。
階下の広場では、次々とハトが飛び立つ音が聞こえた。

「この旅ももうすぐ終わりだ。アレキサンダー」
暗い部屋の中で男が、黒豹の剥製の喉の下を撫でた。
「長い旅だったな……」
剥製の硝子のような虚ろな目には、朝焼けの空の色が映っていた。

階上が何やら人の出入りで騒がしくなった
枢機卿の宮殿の地下のビリヤードルームでは、ジュサックとロシュフォールが玉突きの棒を手に取っていた。
「聞いたか。ジュサック。マリー・ド・メディシスはいよいよマリヤック公爵を擁立し、
リシュリュー閣下を追放しよう企てているようだ」
ロシュフォール伯爵は、持っていた棒で狙いを定めて、撞球台に散らばる赤い玉のひとつを突いた。
「はい。ロシュフォール様」
「閣下の安全が気がかりだ。これまで以上に護衛隊の警護を固めるんだ」
「しかし……」
「しかし?何だ」
「これからはマリヤック公爵様の時代かもしれません……」
ジュサックは、深いため息をつきながら、白い玉を突いた。
白い球は台の角にあたり、ロシュフォールの赤い球に当たって
跳ね返った。
「ジュサック…お前……また裏切るのか」
ロシュフォールの手が止まった。
「違うんです」
護衛隊長は首を振って言った。
「私は伯爵様と違って、ドジでのろまな亀で、いつも閣下のお役にも立てず。つまり護衛隊長に向いていないんです」
「何を言うんだ、ジュサック!」
「もう、護衛隊長辞めます」
「辞めてどうするんだ?」
「ブルターニュにシャルロットさんを迎えに行きます」
「……」
「これからは、愛に生きたいんです……」
「そうか……」
ロシュフォールは、がっくりと肩を落とした。
「ジュサック。お前ならば、困難を分かちあえると思っていた。だが、行け。友の為ならば仕方がない」
ジュサックは部屋を去り際にもう一度名残惜しそうに振り返った。
「元気でな……ジュサック」
「ロ、ロシュフォール様っ…」
ロシュフォールの声が最後に追いかけた。
「幸せになれよ」

リュクサンブール宮殿の回廊では、天井から差し込む光の中でマリー・ド・メディシスは立ち尽くしていた。
ルーベンスの絵の額の背後が、わずかに軋むと、その後ろの空間がすっぽりと開き、人影が姿を現した。
「殿下。マリヤック公からの連絡です」
<白い蝶>は、胸元から手紙を取り出した。
「一刻も猶予はなりません」
太后は受け取った手紙から目を上げて呟いた。
「この計画が知られるのも時間の問題です。決行を一日早め、明日の11月10日にします」
<白い蝶>は緊張した面持ちでうなずき口を開いた。
「タバランは、今朝早く人目につかぬようパリを出ました。関与が疑われば尋問されるかもしれません」
「では、ムードンに逗留しているバッソンピエール元帥に、明日の早朝に動くように伝えてください」
マリー・ド・メディシスは、手紙を再び折りたたむと<白い蝶>に手渡した。
「かしこまりました、殿下」
<白い蝶>は、再び絵の額縁をくるりと回すと、その後ろ側に消えた。
「もう、後戻りはできない……」
マリー・ド・メディシスは、壁の向こうで女スパイの足音が無事小さくなったのを聞き届けると、改めて、天井まで届く巨大なルーベンスの≪勝利の女神に扮したマリー・ド・メディシス≫を見上げた。
古代式の兜をかぶり、豊かな衣が波打つ王妃は、まるで敗北など知らないように、勝利の喜びに満ちていた。
太后の脳裏にふと苦い思い出が蘇った。


「コンチーニとレオノーラ・ガリガイが処刑?」
マリー・ド・メディシスは思わず絶句した。
「しかも、反逆罪の汚名を着せられて……」
よろめいた太后を力強い腕が支えた。
「妃殿下。お気を確かに」
若き日のリシュリューだった。
「あの二人は私がフィレンツェから連れてきた兄弟のような存在です。アンリ四世陛下が凶刃に倒れ、フィリップとは引き離され、私はもう、手足をもぎ取られたも同然です……!すぐ、止めにいきます。何としてでも処刑を止めさせて!」
激昂したマリー・ド・メディシスを、リシュリューの冷静な声が制した。
「なりません。殿下」
青年リシュリューは言葉を続けた。
「ひとまずパリを脱出して、再起の時を待つのです。ブロワならば、先王アンリ四世に忠誠を誓った廷臣たちが大勢います」
「私に逃げろと言うのですか」
「殿下、恐れながら申し上げます」
リシュリューは臆せずに、まっすぐな眼差しで話を続けた。
「このクーデターの原因は、勢力均衡が崩れたことにあります。殿下は取り巻きのイタリア人廷臣のみ信用なさりすぎ、そして、まだお若いとはいえ、国王ルイ十三世陛下を軽んじすぎておられました。片方を重用すれば、もう片方からの反動が生まれます」
リシュリューの言葉には若干の棘が含まれていた。
「彼らの不満が鎮まる日を待ちましょう……馬車を用意しました。最低限の荷物と侍女ひとりを乗せ、追っ手が来る前に夜通し走らせれば、ブロワに着きます」
そして、侍女に荷造りを急がせると、行李を馬車の上に乗せ、
自らは質素な外套に身を包み、御者台の上に立った。
「さあ、殿下。急ぎましょう」
「リシュリュー……では、そなたは私と命運を共にしてもいいのですか」
マリー・ド・メディシスは馬車に乗り込みながら、御者台の青年リシュリューに尋ねた。
「殿下。私は、十六の時に妃殿下にお目通りして以来、国王の顧問官に抜擢いただいたのも、枢機卿位を拝領したのも、全て、殿下のお引き立てがあったからこそです。このご恩は忘れるわけにはいきません」
つば広帽子をかぶり、軍靴を履いたリシュリューは、束ねた髪をなびかせながら、馬に鞭をあてた。
馬車の行く先には、長く果てもなく不安な夜が続いていた。

「そう、私はあの男の野心が怖い……」
マリー・ド・メディシスは、蘇った記憶を振り払うように呟いた。
「あの男は私たちの想像もつかない、未知なる時代を見ている。その得体の知れない何かが怖いのです……」
神々と栄華に彩られたルーベンスの連作の前で、太后はふと不吉な予感に捕らわれた。


人通りが途絶えかけたドーフィーヌ広場では、もう日が暮れようとしていた。
石畳に焼け焦げた黒い跡が点々と残り、燃え滓の残りが散らばっていた。
マントの男がひとり、薄暗く淀んだ空の下で、
見世物小屋の簡易舞台の資材を、馬車の上に乗せて、ロープで縛りつけていた。
全ての資材を縛り付けた後、男と老いぼれたロバの引く馬車はのろのろと川沿いの道を進んだ。
そのとき、ひたひたと後ろをつけてくる足音に気づいた。
「やっぱり、来たか……」
アトスはマントで顔を隠しながら、ロバを急がせた。
辺りは暗くなり、誰もいなくなった川沿いの道辺まで来ると、
アトスは歩を止めた。
「つけて来ていることはわかっている」

「フフフフ……ハハハハハ……」
どこからともなく、不気味な笑い声が響き渡り、
馬車の後ろから、仮面の大道芸人の姿をした男が現れた。
アトスは、マントを脱ぎ棄てた。
「タバランにとどめを刺しに来た。そうだろう?」
アトスは尋ねた。
「だが、残念ながら、彼はもうフランス国境近くだ。荷物を預かるよう頼まれた」
男は懐からキラリと光る剣を取り出した。
アトスは腰の剣を抜いた。
「来い。私が相手だ」
仮面の男も剣を構えた。
丁々発止の斬り合いが始まった。男の剣が二突き、アトスの身のそばをかすめると、
アトスはよけるようにして体勢を立て直した。
アトスは、狙いを定めて男の手元に一撃を加えた。
「おのれ……」
スペイン語訛りで男はわめくと、すかさずアトスに斬りつけた。
その瞬間、アトスの剣は男の仮面を上から切り裂いた。
仮面の破片がハラハラと足元に落ちた。
「ピサロ!!」
その顔を見たアトスはぞっとして叫んだ。
「ハハハハハ……ハハハハハ……」
ピサロは狂ったような高笑いをした。その頬にはざっくりと刀傷があった。
「三年前貴様に半殺しにされてから、地獄の底から這い上がり、ここまで来た」
「私を狙ったのはお前だな」
「そうだ。ミレディーの手紙を枢機卿に届けさせたのも私だ」
「何が目的だ?」
「あの条約文書の存在を明るみに出すことさ。ベアルン南部三州はスペインに割譲させる。今頃マリー・ド・メディシスの謀反の計画を知ってリシュリューは青ざめていることだろう」
ピサロの両耳の赤いピアスが揺れた。
「<白い蝶>を何故つけ狙う?」
「他でもない条約文書の運び手で、貴様の相棒だからだ」
「相棒?」
その瞬間、ピサロは懐に隠し持っていた短剣でアトスに切りかかった。
「死ね!」
アトスは、すかさずピサロの短剣を叩き落とした。
「フフフフ…ハハハハ……」
ピサロは不気味にゆっくりと後ずさりした。
「だが、もう二度と貴様の手にはかかるのはごめんだ」
短銃をひきぬくと、自らのこめかみに当てた。
「すべてはフェリペ四世陛下のおんために」
そして引き金をひいた。
「アディオス!」
ズギューンという鈍い音と共にピサロの身体は、セーヌ川に落ちていった。
そして、川面が赤い血で染まり、それがゆっくりと筋となって流れていき、
やがてはその色は、夕闇の中で徐々に薄くなり見えなくなった。

「母上の容体が悪化したと?」
夜の帳が整えられたルーブル宮殿では、ルイ十三世は寝室に入る前に、最後に侍従からの報告を受けていた。
「どうしても明日の午前中に陛下に話しておきたいことがあるとのことです……」
「一体どうした風の吹き回しだ。わかった。朝の謁見はとりやめる。リシュリューによろしく伝えよ」
寝間着姿の国王が寝台に入って行った後に、
侍従はろうそくの明かりを吹き消した。

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