銃士隊最悪の三日間〜ポン・ヌフを封鎖せよ!〜

BACK | NEXT | HOME

  プロローグ 三つの事件  



夕刻のブルゴーニュ座では、桟敷席に燭台の明かりが灯されはじめた。
着飾った人々で埋まった客席から、楽しげなささやき声がもれ、
まもなく、開演の時間を迎えようとしていた。
「楽しみよねえ。ダルタニャンとお芝居に来るのなんて久しぶり」
客席のコンスタンスは隣のダルタニャンにそっと声をかけた。
「ああ、眠らないように気を付けるよ」
「せっかくナナ・ベルナールさんから招待券をいただいたのよ。鉄仮面に宝石を盗まれたときのことを今でも覚えていてくれていてくれるの」
「ここ連日忙しくってさ。久しぶりの非番だから楽しむことにするよ」
「始まるわよ。寝ないでね」
コンスタンスがダルタニャンの脇腹をひじでこづいた。
場内が静まりかえると、舞台の緞帳の前に座長が進み出た。
「マダム、ムッシュー。ようこそおいでくださいました。これより、ナナ・ベルナール主演、ラシーヌ作『パエドラー』の記念すべき百回目の公演をはじめます。おなじみギリシャ悲劇を当代風に潤色しましたこの作品、我が一座の看板女優、ナナ・ベルナールが悲劇の女王パエドラーを熱演いたします。それでは、皆様お楽しみくださいませ」
座長がそでに引っこむと、場内に盛大な拍手が鳴り響いた。
その後静寂が流れ、幕開けを今か今かと待ち構える人々の目線が舞台に釘付けになった。

しかし、幕は開かなかった。

場内のささやきが、ざわめきに変わった。
「皆様ご静粛に!」
血相を変えた座長が再び緞帳の前に出てきた。

数分たっても幕は微動だにもしなかった。
「たった今、ナナ・ベルナールが急に気分が悪くなり失神しました。大変申し訳ございませんが、本日の公演は中止にいたします」
青い顔をした座長が告げた。
ざわめきは、失望のどよめきに替わった。
「大丈夫かしら。ナナ・ベルナールさん。残念ね」
コンスタンスは不思議そうに席を立った。
「気を取り直して、その辺の散歩でもしようか」
ダルタニャンはコンスタンスの腕を取った。
劇場から出ていく群衆のなかで、ダルタニャンはふと足を止めた。
「あれ、コンスタンス」
「どうしたの?」
「さっき見たことがある男とすれ違った気がするんだ」
「誰かしら」
「ほら、覚えてる?コレットを人買いに売ろうとしたあの男……」
「バスコムだったかしら」
「そう。バスコムを見たような気がするんだ」
「こんなに人がいるんですもの。誰かと会ったって不思議じゃないわ」
そのとき、ダルタニャンとコンスタンスの後ろから声をかける人がいた。
「あのう、銃士隊のダルタニャン殿。ちょっとご相談したいことが……」
振り返ると、そこに先ほどの座長が立っていた。


「ポルトス、八時の鐘が鳴ったら当番終了だ」
アラミスはセーヌ河岸の道を歩きながら振り返る。
「いい匂いがする。金の孔雀亭だ」
ポルトスは料理屋の前で立ち止まっていた。
「ほら、まだ勤務中じゃないか。行こう」アラミスはポルトスの肩を押した。
「腹減った。この当番が終わったら寄らないか」
「ああ、いいよ」
日が落ちた直後の空は緑色に染まっていて、街角にはぽつんぽつんと松明の光が赤く揺れていた。
ふいに、アラミスの前に花売り娘が立ちふさがった。
「ちょっと、銃士のおにいさん。花買ってよ。ピンクのバラ?赤いバラ?それとも白?」
「悪いけど今勤務中なんだ。今度にしてくれないか」
アラミスは仕方なさそうに答えた。
「じゃあ、絶対今度買ってよ。約束よ!」
花売り娘は手を振りながら去って行った。
「知り合い?」ポルトスが尋ねる。
「ああ、ちょっとした」
セーヌ川の黒い濁流を横目に見ながら、二人はポン・ヌフを渡り始めた。
ちょうど対岸のノートルダム寺院の鐘が鳴った。
「ああ、やっとこれで当番終了だ」
ポルトスは嬉しげに言った。
「あれ、ポルトス。交代がいないぞ」
アラミスはポン・ヌフのふもとを見回した。
「おかしいな、いつもここで交代なんだが」
「今日の夜番は誰だっけ?」
ポルトスもあたりを見回した。

交代は誰もいなかった。


リュクサンブール庭園内の離宮では、オルレアン公主催のの舞踏会が開催されていた。
広間の天井からは、大きなガラスのシャンデリアが吊り下がり、ヴィオラが優雅な舞曲を奏でていた。
きらびやかな貴婦人や紳士たちが低い声で談笑し、給仕たちは銀器の音を響かせながら、その間を縫って回る。
「あら、こんにちは。あなたは確かラ・フェール伯爵家の……」
シュヴルーズ公爵夫人は手持ちぶさたに窓際にいたアトスに声をかけた。
「ご機嫌うるわしゅう。マダム。今日は父の名代でオルレアン公にご挨拶に来ました」
「確かお母上は、ブロワ城で女官をなさっていたとか。お元気でいらっしゃいます?」
「はい。おかげさまで」
アトスはちょっとぎこちなく言った。
「あなたはパリにいらっしゃるの?」
「アトスという名で国王の銃士隊におります」
「あら、聞いたことがあるわ。パリの三銃士のひとり、でしょう。まあ、ご立派だこと」
「とりえといえますのはこの剣の腕ばかり。このような場所に出ても気の利いたお世辞すら思いつきません。今日は父の命令とあってしぶしぶ参上した次第です」アトスは儀礼的に答えた。
「ずいぶんとご正直ね」公爵夫人は笑い出した。
「そういえば、銃士隊にローザン伯爵家のご子息もいるのでしょう」
「はい、ローザンもおりますが」
「さっき、そこで見かけましたわ。でも大変な放蕩息子でお父上もご苦労が多いとか……」
公爵夫人は声を潜めた。
「酒と賭博と喧嘩と、何かと騒ぎに事欠かない男でございます」
「偽名で入隊した貴方と大違いね」
では、と挨拶しながらシュヴルーズ公爵夫人は立ち去ろうとした。

そのとき、広間に駆け込んできた給仕が叫んだ。
「大変だ!庭園で誰かが倒れている!」
一寸ヴィオラの音が止まった。
広間に不安げなどよめきが広がる。
アトスが闇に沈む庭園にかけつけると、幾何学形に刈り込まれた茂みの陰で、男がひとりうつぶせになって倒れていた。
背中には短刀が刺さっていた。
「庭で男二人がもみあっているのを見かけたんだ。そうしたら……」
銀の果物籠を持った給仕がぶるぶる震えながら言った。
アトスは男に近寄った。
「どうした。大丈夫か?」
「証拠をつかんだぞ……」
男は息も絶え絶えに言った。
「証拠?」
アトスは問い返す。
「……ああ、家にある」
男は喘ぎながらつぶやいてから、血の海の中でこときれた。

――それが悲劇の幕開けだった。


<続く>
BACK | NEXT | HOME
inserted by FC2 system