欺かれた人々の日

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  第7話 スパイは誰だ  


「ポルトス、交代の時間だ」
ポン・ヌフ上の雑踏の中から、馬に乗ったアトスが現れた。
「おお、後を頼んだ。やっと昼飯だ」
ポルトスは、昼食のパンの包みを抱え、
馬に乗ると、手を振りながらその場を離れ、人ごみの中に消えた。
「何か変わったことは?」
アトスは、てきぱきした動作で馬から降りてダルタニャンに聞いた。
「シャルロットさんと会った」
「シャルロットさん?」
そのとき、二人の目の前のドーフィーヌ広場は群衆で囲まれ、その真ん中の
見世物小屋から黒い煙が出ていた。
「ダルタニャン、大変よ!」
コンスタンスが駆け寄ってくる。
「人が閉じ込められているの!」
アトスとダルタニャンは、群衆をかきわけて小屋に近づいた。
「助けてくれ―!」
閉めきられた粗末な掘立小屋の中から、人がどんどんと叩く音が聞こえた。
小屋は半分炎に包まれ、力尽きたように声はだんだん小さくなっていった。
「斧だ。斧はないか?」
アトスとダルタニャンは、見物人から渡された斧を手にすると、
小屋を壊し始めた。
やっと人がひとり入れるほどの突破口ができると
縄でぐるぐる巻きにされた。太った小柄な老人が炎に追われるように、もんどりうって出てきた。
「ああ、助かった……」
「タバランさん!?」
コンスタンスは、人目を引く道化の衣装を来た、ごま塩頭の老人を凝視した。
「大丈夫ですか?」
ダルタニャンとアトスは、タバランの縄を切って助け起こしながら、
初めてみる、仮面の大道芸人の素顔をまじまじと見つめた。
「何があったんですか?」
「今日の三時にこの場所で<白い蝶>と待ち合わせしていたんだ……」
タバランは青ざめた顔で言った。
「そしたら来たのが、わしそっくりの仮面の大道芸人…。何から何までそっくりだ」
「そいつに縛られて閉じ込められたんですね」
ダルタニャンは相槌をうった。
アトスはおもむろに口を開いた。
「僕も今週火曜日に、この人の衣装そっくりの仮面の大道芸人に襲われた」
タバランはアトスの顔を見た。
「いや、わしはあんたを初めてみるよ。火曜日はわしはここの喜劇に出ていた」
「そう。私はタバランさんをここで見ていたわ。ダルタニャンが遅刻した日よ」
コンスタンスは付け加えた。
「僕とポルトスが坊さん連中に追いかけられた日だ。つまり…」
ダルタニャンは言葉を続けた。
「タバランに成りすました誰かがいるっていうことだ。仮面と衣装さえ同じならば、偽物とはだれも気付かれまい」
アトスは考え込んだように言った。
「でも、あなたをここに呼び出したのは<白い蝶>だったんですね」
「ああ、太后様への伝言を渡す予定だった」
「でも、来なかった」
「ということは…<白い蝶>は今その偽物のところにいるってことか」
アトスは言いかけてはっとした。
「ダルタニャン、すまん」
そして、自分の馬に飛び乗ると拍車を入れた。
「確かめたいことがあるんだ。後を頼む」

ブーローニュの森の外れでは、どこかでフクロウが鳴いていた。
雲が切れ間から三日月が顔を出すと、黒い木々が細かくざわめいて揺れた。
<白い蝶>は乗っていた葦毛の馬から降りると
誰もいない蔦で覆われた水車小屋に入って行った。
小屋の中では、カンテラの光の中、机の上で大道芸人が書き物をしていた。
<白い蝶>は後ろ手で扉を閉めた。
「タバラン、ブリージュからの返事はどうなった?」
後ろ姿の仮面の大道芸人は椅子から立ち上がった。
「太后殿下亡命の日取りはいつだ?」
大道芸人は手を差し出して詰め寄った。
「それよりもまずそちらの返事を渡してほしい」
<白い蝶>は怪訝な顔で言った。
「………」
「タバランどうした?」
「フフフフ……」
男は、奇怪な雰囲気の中で、地の底から響くような笑い声を立てた。
「待て。お前は、タバランではない……」
<白い蝶>は思わず後ずさりした。

フェルー街の細い路地で、アトスは馬から降りると、
駆け足で階段を上り、二階の自分の下宿部屋にたどり着いた。
そして、ドアのノブに架けられた自分のマントに気づいた。
前日<白い蝶>に渡したものだった。
「ここに来たのか……」
アトスは不安を隠せないままマントを掴むと階段を駆け下りていった。

リュクサンブール宮殿のマリー・ド・メディシスの居室では
「太后殿下、至急面会を申し込んでいる者がおります」
従者が太后に耳打ちした。
「誰です?」
太后は聖書から顔を上げた。
「銃士隊のアトスと名乗る者ですが……」
「通しなさい」
太后の返事を待つまでもなく、アトスは息せききって、尋ねた。
「恐れながら、殿下。<白い蝶>はどこにいるのですか?」
「何故そなたがそれを?」
マリー・ド・メディシスは突如の質問に眉をひそめた。
「一介の銃士の無礼をお許しください。先ほど、ドーフィーヌ広場の見世物小屋で
仮面の大道芸人のタバランが何者かに縛られ閉じ込められていました」
「まあ……」
太后は立ち上がった。
「大道芸人そっくりの衣装と仮面をつけた男の仕業と言います」
太后はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「<白い蝶>は、そのタバランに呼び出され、今夜ドーフィーヌ広場の水車小屋に行きました」
「何故、ひとりで行かせたのです?」
アトスは思わず詰め寄った。
「それが、そなたとどのような関係が?」
マリー・ド・メディシスは、険しい表情で尋ね返した。
「失礼致しました。僕も数日前タバランの偽物に命を狙われたのです」
アトスは続けた。
「そして今日はタバランの本物が狙われ、次は……」
マリー・ド・メディシスの顔が青ざめていった。
「すぐにブーローニュの森にお行きなさい!」
言葉が終わらないうちに、アトスは部屋を飛び出した。


汝の罪は鬼より多し
ここに入らん者、すべての望みを棄てよ
ハハハハハハハ…

狂ったような高笑いがあたりに響いた。
短銃を取り出して狙いを定めた<白い蝶>は、部屋に充満する油の匂いに気づいた。
偽の大道芸人は、燃える暖炉から松明に火をつけ、壁沿いの積み藁に火をつけた。
水車小屋は瞬く間に炎に包まれた。

男は、懐から小さな丸い爆弾を取り出した。
<白い蝶>は男に飛びかかり殴りかかった。
男がよろめいた瞬間、爆弾は、ころころと床の上に転がった。
<白い蝶>はすかさず爆弾を水桶の中に入れた。
「わかった。アトスを襲ったのはお前だな……」
そして、呻きながら横たわっている男の肩に手を伸ばした。
「その仮面を剥いでやろう」
<白い蝶>が、仮面に手を伸ばした瞬間、男は突如起き上がり、
手にしていた短刀で切りかかった。
体勢は逆転した。
かわそうとして倒れ込んだ<白い蝶>に踊りかかると
ぐいぐいと首を絞めはじめた。
女の髪の毛が解けて顔に落ちかかてきた。
「お前の素顔を暴く方が先だ!」
スペイン語訛りで叫びながら男は、女の黒いマスクに手を伸ばした。

その時、水車小屋の扉を外から叩く音がした。
「誰かいるか?」
アトスの声だった。
アトスは体当たりをして、ドアを破った。
もくもくと黒い煙が外にあふれ出た。
アトスに気づいた偽の大道芸人は、慌てて立ち上がり裏口の扉を叩くと
壁がひっくり返り、瞬く間に姿を消した。
追おうとした<白い蝶>を、半ば引きずり出すように押しとどめながら
アトスは叫んだ。
「今すぐここから離れろ!」
炎に包まれた柱が次々に落下してきた。

二人が外に出てすぐに、ごうごうと音がして水車小屋は崩れ落ちた。
辺り一面に火の粉が飛び散った。
「危ないところだった。怪我はないか?」
アトスは埃と煤まみれの額の汗をぬぐった。
「あと少しだった……」
<白い蝶>は謎の男が消えた方角を見ながら、ぼそりと呟いた。
火の粉が蛍のように舞い散っていた。
「そうだ、これを返そう」
アトスはポケットからペンダントを取り出した。
そこに<白い蝶>の姿は無かった。
冷たい夜風が、森の中を吹き抜け、
白く光る下草をビロードのように揺らして波打たせた。


夜が明けるころ、リシュリューは徹夜明けの目をこすりながら、
おもむろにインク壺からペンを取り上げると、どこからとおもなく笛の音がした。
「空耳か……」
夢の中を彷徨うように、書類から目を離し窓の外を見ると
窓枠に一本のに矢が刺さっているのに気付いた。
矢の先には、こより状に結びつけられた紙がついていた。
リシュリューは窓を開け、紙を広げた。
「マリヤック公爵と数人の貴族は、猊下の座の転覆を企てています。用心されたし。
首謀者たちの脱出用の馬車はモー街道に待機しています」
リシュリューは、朦朧とした知覚のまま、紙をびりびりと破った。
まだ夢から醒めやらぬように、笛の音色の残響が耳にこびりついていた。

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