欺かれた人々の日

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  第5話 仮面舞踏会の夜  



その一瞬にして大広間や闇に閉ざされ、人々のさざめきは消え去った。
しばらくすると、小さな赤い炎が揺れてぼうっと光り、周囲に少しずつ広がり、
やがて亡霊のような女の影が壁に照らし出された。
つば広帽子の羽の先が、雫のように反射してきらりと輝くと、
その下から黒いマスクをつけた女の顔が微かに現れた。
「ロシュフォール様、あれは<白い蝶>です…」
ジュサックはごくりと唾を飲み込んだ。
「わかっている。ついに出たな。追うぞ!」

ロシュフォール伯爵とジュサックは、音を立てずに女の後姿を追った。
<白い蝶>は、まるで二人を招くように口元に笑みを見せると、ゆっくりと向きを変え、大広間の扉を開けた。
その瞬間、白い月明かりが差し込み、女の横顔を煌々と照らした。
女は、狭い廊下を早足で歩き始めた。
燭台の明かりが石造りのアーチに飛び、雷光のように流れた。
一瞬足音が廊下の突き当りで止まると、女はその壁に手を押し当てた。
すると壁は消え、女は足早に中庭の回廊に出た。
コツコツと足音を響かせながら、翻し波打つスカート裾が列柱の間から見え隠れしている。
「このまま行けば裏庭に追い詰められそうですぜ」
護衛隊長は満足げに囁いた。
「おい、ジュサック、しかし奇妙じゃないか?」
ロシュフォールは、一瞬足を止め、隣の相棒に応答した。
「やけに静かだ…」

黒いビロードの帳に囲まれた小部屋の中では、
寄木細工のテーブルの上に、蝋燭の炎がちろちろと影を落としていた。
「皆様ようこそ、我が仮面舞踏会へ」
コルクの栓が抜ける音がした。
マリヤック公爵は、金色の仮面をとった。
「そして、ようこそ。我が弟のイタリア方面司令官着任の祝賀会へ」
軍服を来たマリヤック元帥は、隣で仮面を取って一礼した。
「今宵は歴史に残る夜となりましょう」
「まさにさよう」
部屋の奥に座っていた人物が、優雅な動作で黒い仮面をすかさず取った。
「オルレアン公ガストン殿下!」
一座から驚きの声が漏れた。
「殿下をお迎えできるとは光栄至極」
マリヤック兄弟は膝を折った。
「誇り高き王統がリュソンの一司教の操り人形になるわけにはいかぬ」
その隣の風格ある白髪の同人も赤い仮面を取った。
「バッソンピエール元帥」
一同はラ・ロシュルの英雄の姿を認めた。
「私は、わが命を賭して二度の負傷を負い、ラ・ロシュルに巣食う新教徒どもを壊滅させた。
この後に及んで大義を翻し同胞と戦えというのか。だが、これ以上の戦線の拡大は認めん」
元帥は重々しく口を開いた。
緑色の仮面をとった人物も横でうなづいた。
「今夜、リシュリューの命運も変わる」
「モンモランシ―公爵殿……」
小柄な老人は語りかけた。
「我らがカトリック連盟を見捨てることはできまい」
首謀者たちが揃うと、マリヤック公爵はめいめいの顔を見回した。
「お聞きになられたか。今日の午後ポン・ヌフで小競り合いがあった。三日前、リシュリューは軍備拡張のため間接税の増税を決議にかけた。
これを聞きつけた民衆たちが護衛隊と衝突した」
「ついに人心までも離れたか。今が好機」
「我々の決意は民衆も賛同するだろう」
マリヤック公爵が懐から白い紙を取り出した。
「先ほど<白い蝶>が太后殿下からの指令を持ってきた。決起の日は11月11日。 太后殿下はリュクサンブール宮殿で国王ルイ十三世陛下と秘密の会談を持ち、リシュリュー罷免の最後通牒を突きつける」
「私は一個部隊を率いて明日イタリアに発つと見せかけ、密かにパリに戻り、その日の朝からリュクサンブール宮殿を蟻一匹通れぬよう包囲する」
弟のマリヤック元帥は続ける。
「陛下を人質にとっても罷免にご同意頂くつもりだ」
兄のマリヤック公爵は付け加えた。
「私は未明にサン・ジャック門からパリ入城。枢機卿宮殿を包囲する。リシュリューの逃亡を未然に防ぐ」
バッソンピエール元帥は低い声で言った。
「その間、ガストン殿下はパリを離れナントにてご待機くださいませ」
「承知した」
オルレアン公ガストンは答えた。
「先ほど門の前で騒動があったようだが…」
「枢機卿の手下が二名迷い込んだ。なあに、タバランと<白い蝶>がまいてくれる。
下手に邸内を詮索されたら面倒だからな。明日の朝には井戸の底で眠りから覚めるだろう」
マリヤック公爵は、角底の瓶から琥珀色の液体をめいめいに注いだ。
「では皆様。今夜フランスの未来も変わろう」
5人の首謀者たちは盃を掲げた
「リシュリュー最後の日に、乾杯」
銀杯がカチャリと音を立てた。


「もう、逃げられんぞ!<白い蝶>」
ついにロシュフォールとジュサックは、裏庭の井戸の茂みに女を追い詰めた。
<白い蝶>はゆっくりと振り返ると、燭台の明かりが無表情な顔を照らし出した。
「リシュリュー閣下からのお達しだ。スパイ容疑で逮捕する」
ジュサックは逮捕状を出した。
「スペインへとの条約文書の顛末も白状してもらおうじゃないか」
ロシュフォールは語気荒く付け加えた。
<白い蝶>は静かに懐から短銃を出し、狙いを定めた。
ジュサックがその時ヒューと口笛を吹いた。
すると、赤い服の護衛隊が裏庭の背後の塀を乗り越えわらわらと姿を現した。
「ジュサック、でかしたぞ」
ロシュフォールは満足げにつぶやいた。
「捕えろ!」
護衛隊士たちは一斉に剣を抜いて女を取り囲んだ。
<白い蝶>は観念したように、短銃を落とした。
「ずいぶんと聞き分けが良いな」
ジュサックは二三名の護衛隊士と共に<白い蝶>を後ろ手に縄で縛った。
「まあ、鞭でしばけば、その素性も割れて出よう」
ロシュフォール伯爵は女の肩をぐいと押して連行しようとした。


そのとき、
「ちょっぉぉとまったぁぁぁぁぁぁあ――――!」
聞き覚えのある声があたりに響いた。
ダルタニャンが青い制服の銃士隊と共に裏庭に現れた。
ダルタニャンは、怖い顔のまま、つかつかと<白い蝶>の前に手にしていた書状を掲げた。
「<白い蝶>。いや、ナジェージダ・ドォーロワ。お前を国王陛下の命令により逮捕する!」
「なんだと?」
ジュサックとロシュフォールは同時に叫んだ。
「おい、こいつはリシュリュー閣下の逮捕状が出ている。こっちによこすんだ」
ロシュフォールはぐいと身を乗り出した。
「残念ながら、この人はリトアニア人で、フランス語わからないんだ。ロシア皇帝に宛てた陛下の書簡を奪った罪だ。証拠は全部あがっている」
ダルタニャンは続けた。
「つべこべ言わずさあ、こっちに来てもらおう」
後ろからポルトスが現れ、縛られた<白い蝶>の腕をぐいとひっぱった。
「待てい、銃士隊。こいつは太后のスパイで、スペインへ領土割譲を約束した条約文書に絡んでいるんだぞ」
「容疑はどうであれ、ロシュフォール。宰相の逮捕状と国王の逮捕状とでは、国王陛下の逮捕状の方が優先だろう」
アトスも柱の陰から現れて冷静に言った。
「くぅぅ。おのれ、銃士隊!俺たちの獲物を横取りする気か?」
ロシュフォールは足を踏み鳴らした。
「俺たちだって、トレヴィル隊長の指令でここに来てるんだ。さ、どいたどいた」
ポルトスは護衛隊士を掻き分けた。
「囚人を渡すな!」
ジュサックは叫んで剣を抜くと、護衛隊士たちも一斉に剣を抜いた。
「だから、もう。陛下の命令なんだってば!」
ダルタニャンも剣を抜いて応じた。
護衛隊と銃士隊との間でもみくちゃの乱闘が始まった。
<白い蝶>はその隙に乗じて後ろ手に縛られたまま、傍の護衛隊士をつきとばすと
列柱回廊に向けて走り出した。
「追えっ」
護衛隊士が追うと、ポルトスは巨体で通路を塞ぎとうせんぼした。
「こっちだ」
アトスは、短剣で<白い蝶>の縄を切り、誘導するように走り出した。
「あれ、<白い蝶>は?」
ロシュフォールの剣を受けながらダルタニャンは叫んだ。
「アトスが連れてった」
5人がかりでかかってきた護衛隊士を押し返しながらポルトスも叫ぶ。


サン・トーマ・デュ・ルーブルの一角の屋根の上では、夜風が強く吹いていた。
星ひとつ見えない夜空に厚い雲が早い速度で流れていった。
スカートをはためかせながら、スレートぶきの屋根の上に<白い蝶>が姿を現した。
「走れますか?」
アトスは女の腕をつかみながら、屋根の上を駆け出した。
そのとき、二人の前を銃弾が横切った。
「おい、あっちだ。あっちに逃げたぞ!」
眼下の路地から、赤い制服の護衛隊士が銃を構えていた。
二人は煙突の陰に身を隠しながら、家々の屋根と屋根の間を渡って行った。
「あの羽根飾りの帽子が標的だ!」
ジュサックはマスケット銃の引き金を引いた。
銃弾のひとつが屋根瓦にあたり、瓦が四方八方に弾けた。
その破片が<白い蝶>の後頭部を直撃した。
「あ…」
<白い蝶>はその場倒れ込むと屋根を転がり落ちていった。
「危ない!」
アトスは間一髪で腕をつかむと、女をひきずりあげた。
「気を失っている…まずいな」
アトスはぐったりとした女スパイを肩に担ぐと、
屋根に張り出た、窓の窪みの中に身を隠した。


暖かな空気が頬に触れ、暖炉の薪がパチパチと音を立てている。
深いまどろみの中から、女はぼんやりとした意識を覚ました。
「ここは…?」
女は、ふらつきながら、自分が座らされていた厚い布張りの肘掛椅子
から身を起こした。
「よかった。気づかれましたか」
遠い記憶の底から、懐かしいような男の声が聞こえた。
「この椅子は…?」
女は、月明かりの中で手の下の椅子の感触を確かめた。
「椅子…?普通の椅子ですが…?」
怪訝な顔でアトスは近づいた。
<白い蝶>は、はっと我に返った。
「気付けにいかがですか?」
アトスは、ブランデーの瓶の口を女の口元に近づけた。
「……」
マスクの奥の女の表情が一瞬こわばった。
「あ、コップの方がいいですか…失礼」
茶色い液体を、半透明のガラスの杯に少し注ぐと女に手渡した。
女は受け取ろうと手を伸ばした瞬間、赤い筋が指先からポタリと落ちた。
「その手……怪我をしている」
アトスは何か縛るものはないかと、慌てて戸棚を開けると、中から、
几帳面に詰まれた本がドサドサと崩れ、空き瓶が転げ落ちてきた。
アトスは苦笑いして、ポケットから麻のハンカチを取り出すと、ブランデーの瓶の液体を二三滴染み込ませた。
そして、女の右手の袖口をたくしあげると、傷口を丁寧に縛った。
「これで大丈夫」
「ありがとう」
<白い蝶>は小さな声で呟いた。
「追っ手はもうここまで来ない。むさくるしいところですが僕の下宿だ」
壁際に本が積み重なった小さな部屋には、窓から青い月明かりが差し込んでいた。
「……」
黙って<白い蝶>は立ち上がった。ゆっくりと歩くと窓辺に行った。
窓の向こうには、小さな灯が点々と揺れながら、リュクサンブール宮殿が闇の中から
その輪郭を浮かび上がらせていた。
「そうだ。トレヴィル隊長の命令だ。リュクサンブール宮殿までお届けする」
アトスは思い出したように言った。
「その恰好は目立つからこれを着なさい」
そして、自分のマントを女に投げた。

黒い影を落とすアーチをくぐり、夜露に濡れた石畳を、
二つの足音が静かにこだました。
苔の生えたガーゴイル型の雨樋が水滴をぽたぽたと落としていた。
アトスは数歩の距離を開けて、<白い蝶>の傍らを歩いた。
「お礼を言いたいのは、むしろ僕の方です。先週の火曜日、妙な仮面の大道芸人に襲われていたところを貴女に助けられた」
「……」
<白い蝶>はそれに答えずに、歩みを進めた。
アトスは考え込んだように顎に手を当てた。
「それにしても解せないことがある……太后殿下のスパイというのは貴女の本心からではあるまい」
女の足がぴたりと止まった。
「失礼しました。余計な詮索でした」
「……」
二人はまた歩き出した。
もう、目の前にはリュクサンブール宮殿の鉄の柵が見えていた。
「もし何か困ったことがあったら、僕を思い出してください。そこのフェルー街に住んでいます。銃士隊のアトスといいます」
アトスは女の後姿を追いかけるように言った。
<白い蝶>はマントにすっぽりと身を隠したまま、いちどくるりと振り返ると、静かに鉄の柵扉を開け足早に中に入った。
そしてそのまま夜霧の向こうに消えていった。

アトスはフェルー街の下宿部屋の窓の桟に腰掛ながら、
ブランデーの瓶を片手に、夜風に吹かれていた。
そして、リュクサンブール宮殿の灯が全て消えるのを見届けていた。
もう寝ようと部屋に戻ると、肘掛椅子の下に、白く光るものが落ちていることに気づいた。
手に取ってみると、六角形のロケットの中に少女が描かれた細密画がはめこまれていた。
こんな幸福そうな、屈託なく笑う少女はついぞ見かけたことがなかったと思いながら、
ペンダントをポケットに入れた。
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