欺かれた人々の日

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  第3話 アトス危機一髪  


日没前の黄昏の光が空の半分をまばゆく照らすと、
東から黒い雲がそれを覆い隠すかのように迫ってきた。
「今夜は雨が降りそうだ……」
家路についたアトスは、ふと空を見上げつぶやいた。
夕暮れのパリの街では、あちこちの家のかまどから煮炊きのための煙がたちのぼっていた。
アトスが細い小路を歩いていくと、路地裏の向うからコツコツとひそやかな足音が聞こえた。足音は、どうやらアトスと等間隔で歩いているようで、アトスが足を止めると足音も止まった。やがて、曲がりくねった人気のない通りに差し掛かると、一層その距離を縮めていく。
アトスはついに振り返った。
黒いマントを羽織った人間のシルエットが、大通りの松明に照らされて逆光であらわれた。
「誰だ?」
その人物は答えずに、一歩一歩近づいた。
すると、風で松明がゆらめき、マントの下の形相が一瞬あらわになった。
ベルガモ風の鼻の高い仮面と、首までつまった白い襞の襟。
コメディア・デラルテの役者の衣装だった。
「ふふふふふふ。はははははは」
男は不気味な声で笑った。
「見たところ喜劇役者のようだな。何の用だ」
アトスは尋ねた。

人のいのちの道半ば
正しい道を踏み迷い
ふと気が付けば暗黒の森

男は返事の代わりに唄の一節を唱えた。
すると、路地裏にうずくまっていた乞食の一団がむくむくと起き上がった。
手にはそれぞれがきらりと光る剣を持っていた。
「ふふふふふ。ははははははは」
男の笑い声が路地に響いた。
「卑怯だぞ」
アトスは剣を抜いた。

乞食のひとりが背後から剣を突いた。
アトスはそれをひらりとかわすと、目の前のもう一人の乞食に一突きをくらわせた。
もう背後からの男の剣を受けながら、両脇の二人を蹴り倒した。
しかし、男たちは後から後から襲ってきて、気が付けば行きどまりの壁に追いつめられた。
仮面の大道芸人はアトスの首筋に冷たい剣を突きつけた。
「おのれ……」
アトスは唇を噛んだ。
そのとき、二、三発の銃声が轟き、大道芸人の剣が粉々に砕け散った。
「誰だ!?」
硝煙の流れる方向を見やると、大通りに停まった黒い馬車の窓から、マスクの女が身を乗り出して短銃を構えていた。
頭にはふわふわ揺れる羽飾りの帽子……。
「<白い蝶>め!」
大道芸人は声を漏らした。
「タバラン!その人は敵じゃない」
女は短く叫ぶと、馬車の窓の覆いをパタンと下げた。
そして黒い馬車は音もなく動きだし、夕暮れの人混みの中に姿を消した。
気が付けば路地の乞食たちと大道芸人も逃げていなくなっていた。
アトスは夢でも見たかのようにつぶやいた。
「あれが、<白い蝶>……!」
空はいつのまにか黒雲で覆われ、雨がぽつりぽつりと落ちてきた。

「ジュサック、ここにいたのか」
ロシュフォールがセーヌ川の土手を下りていくと、護衛隊長のジュサックが丸太に腰をおろしてぼんやりと川の流れを見つめていた。
「どうした?リシュリュー閣下が呼んでいるぞ」
晴れた日の午後、川面が写しだした青い空には、雲がさまざまなかたちになって流れていた。
石を投げると、さざ波がたち、雲の輪郭が崩れ、その下から魚がぴちゃんとはねた。
「ノルマンディーに帰ったシャルロットさん、元気かなあ」
「さあ、どうだろうな」
ロシュホールはジュサックの隣に腰を掛けた。
「ロシュフォール様はいいですよ。シャルロットさんとふたりっきりで手取り足取り……羨ましいですよ」
「役得だ」
「もう、五通も手紙出してるんですよ。お返事くらいくれたっていいじゃないですか」
「きっとむこうで幸せなんだろう」
「私だって恋がしたいです……」
鏡のような水面につがいの鴨がふたすじの跡を残しながら横切って行った。
「おい、ジュサック、何だあれは?」
ロシュフォールがふと顔をあげると、川辺の柳の木の枝が風でざわめき、葉の間から鮮やかな女物のパラソルがちらちらと見えた。
どこからともなく笛の音が聞こえ、パラソルはくるくると回った。
「お、お化けぇ……?」
ジュサックはごくりと唾を飲み込んだ。
「まさか。ミレディーのお化けってことはないだろう」
「お化けは苦手なんですよっ」
逃げ出そうとしたジュサックのマントをロシュフォールがぐいと掴んだ。
「よく聞け。ミレディーの笛と音程が違うじゃねえか」
ロシュフォールは嫌がるジュサックをひきずりながら、柳の木に近づいた。
「誰だ!?そこにいるのはっ!」
柳の枝をかきわけ、剣を抜くと勢いよくパラソルに突き刺した。
すると、剣は柳の大木に突き刺さり、破れたパラソルの上から紐が落っこちてきた。
「心配するな。誰かの悪戯だ」
ロシュフォールは紐を引っ張り捨てた。
「ああ、まったく、もう。こわいじゃないですか」
ジュサックは、ふと視線を下に落とした。
「ロシュフォール様、何か手紙みたいなものが置いてありますよ」
柳の大木の根元に、白い封書が、まるで誰かに発見されるのを待っているかのように、真っ直ぐに置かれていた。
ロシュフォールはその白い封書を拾いあげた。
「リシュリュー枢機卿宛で、三年前の日付だ」
「差出人は…?」
ジュサックがおそるおそる尋ねると、ロシュフォールはかすれて半分見えなくなった字を追った。
「ミレディー・ド・ウィンター」

リュクサンブールの庭園では、ポプラ並木の枝の間から、黄色い葉が風に舞っていた。
「母上。おかげんが悪いと聞きましたが」
古代風の彫像が置かれた広場の周りをルイ13世は母親の手をとって歩きはじめた。
「ええ、もうすっかり治りました。あなたがここを訪ねてくるなんて珍しいわ」
マリー・ド・メディシスは息子を見上げた。
「ところで、このあいだのリヨンでのお話のことですが……」
「覚えていますわ。マリヤック公爵を宰相にするとの約束でしたわね」
「忘れていただけますか。あのときは、熱にうなされて死にそうだったのです。母上があまりにも強くおっしゃるものですから。後々考えると過ぎた約束をしました」
「しかし、ルイ。リシュリューは、今度は枢機卿の矜持を棄てて新教徒と同盟を結ぼうとしています。彼の強引な政策にパリの貴族たちはもはや内心の反発を隠しません……」
「わかっています。母上。ですが、リシュリューは私の政治の教師です。それよりも長く母上に献身してきました。忠臣を切れば、王家に忠誠を誓う貴族たちも動揺します」
「ルイ。あなたはまだ若くて世の中を知らないわ。才走りすぎる宰相は、国王にとってひとつの脅威になります。これから、あの男がどんなに権力を手に入れても、あなたに対する忠誠心は変わらないとは言い切れない」
「信じる以外にありません」
ルイはいらいらしながら言った。
「母上。このお話はまた、今度にしましょう」
国王は思い出したように言葉を続けた。
「もう、謁見の時間です。ルーブル宮に戻らなくては」
そして母親にお別れの抱擁をすると、衛兵たちに取り囲まれながら、慌ただしくお召し馬車に乗り込んだ。

三連の壁龕で囲まれたメディチの泉には、円形の水盤を覆うように色づいた葉が浮いていた。
「そろそろ、わたしの間諜が戻ってくるころだわ」
マリー・ド・メディシスは、泉の前の砂利道を歩きながら、三時の教会の鐘の音を聞いた。
そのとき、音もなく壁龕のひとつの中の壁が左右に開き、人影が姿を現わした。
「太后殿下」
白いふわふわ揺れる羽飾りの帽子に、金の裾飾りのある服のマスクの女……。
<白い蝶>だった。
女は、胸の大きく開いた服から手紙を取り出した。
「それで、マリヤック公爵は何と?」
太后は手紙を受け取った。
「土曜日に反リシュリュー派の貴族がマリヤック邸に集まります」
「わかったわ」
「太后殿下。ご身辺にはご注意なさいますよう」
<白い蝶>は声をひそめた。
「こんなものが、通路の扉に刺さっていました」
女の手には、華奢な柄のついた短剣が握られていた。
「リシュリューの手のものかもしれません」
「あなたもくれぐれも気を付けて」
「枢機卿の右腕なら、弱点はわかっています」
「お返事はまた明日に」
「了解しました」
<白い蝶>は辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、また壁龕の中に姿を消した。



【つづく】
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