欺かれた人々の日

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  第2話 マリヤック兄弟、怒る  



今まさに諮問会議が終わった後の、ルーブル宮殿の控えの間では、一瞬空気が凍りつき、緊迫の時間が流れていた。
「ラティスボン条約締結の際、ボヘミアの新教徒たちとの同盟を勝手に破棄したことはどういうことです。マリヤック公爵殿。国璽尚書たるあなたの何たる失態ですか」
詰め寄ったリシュリューの声には棘が含まれていた。
「ならば、リシュリュー殿。カトリック教徒としてお答えしよう。その項目は私の一存で外した」
既に頭髪に白いものが混じる年齢の公爵は、堂々とした穏やかな声で応じた。
「今はこれ以上戦線を拡大すべき時ではない。重税にあえぐ農民たちがあちこちで一揆を起こしているではないか」
「無駄なことをしてくれたものです。これで神聖ローマ帝国の内紛にフランスが介入する機会を逸したのですぞ。わかっておられるのか」
リシュリューは憤懣やるかたない様子で歩きまわった。
「リュソンの小倅が、ハンニバルでも気取る気か。マントヴァのお家騒動に首を突っ込み、大軍を動員してモンフェラートを攻めたところで、一体何の利益になるというのか」
マリヤック公爵は、再び口を開いた。
「何故なら、マントヴァをパプスブルグ家が相続すれば、イタリア半島はほぼスペインの掌中のものになるからです」
「そのためには新教徒どもと手を結ぶことを厭わぬというのだな。ならば、もう一度言おう。私は生粋のカトリック教徒だ。同胞と戦うことはできん」
「時代遅れの、頭の固いお方ばかりだ」
リシュリューは吐き捨てるように言った。
「未だに新教徒とカトリック教徒が血を流しあえと?アンリ大王の勅令をお忘れですか。刃向う新教徒どもは叩きつぶしましょう。ですが我々の利益になる新教徒どもとは手を結ぶべきです。何故ならボヘミアの内乱は、もはや宗教の戦いではなく、ハプスブルグの屋台骨が揺らいでいる証拠なのです」
「宰相ならば足元を見るがよい。農村を立て直し、民の暮らしを優先させろ」
マリヤック公爵は腹の底から響く声で叫んだ。
「マリヤック公爵殿。国王陛下もこの戦争への介入を同意されたのですぞ」
リシュリューは一歩公爵に近づいた。
「リシュリュー殿。国王を操縦して権力を掌握したおつもりか。覚えているがよい。貴様の地盤は思ったよりも脆いぞ」
「公爵殿」
リシュリューは部屋を出ようとした公爵の背後に追い打ちをかけた。
「あなたの方こそ、オーベルニュの領地に許可なく砦を築いて、一体何を企んでおられるのやら。部下を使って調べさせました」
「何をたわけたことを」
マリヤック公爵はリシュリューを睨み付けると、勢いよく扉を開いて出て行った。

サン・ト―マ・デュ・ルーブルのマリヤック公爵の城館では。
「兄さん、いるか!」
寝台の中のマリヤック公爵は、夜もだいぶ深まる時刻に、廊下に轟く軍靴の大きな音に目覚めた。
気が付くと弟のルイ・ド・マリヤック元帥が、額から汗を流して立っていた。
「大変だ!オーベルニュの砦が何者かに爆破された」
「何だと……」
寝間着の公爵はしばらく絶句した。
「父上の遺言で築き上げた城なのに……一体誰の仕業なんだろう……」
「わかっておる……リシュリューだ」
マリヤック公爵は低い声で言った。
「あの男は父祖代々守ってきた土地を、まるで自分の庭のように土足で踏みにじる」
「兄さん……」
「しかし、このまま黙ってひきさがるものか。明日マリ―・ド・メディシス王太后殿下に奏上する。太后殿下は、あの生意気なリュソンの司教の後見人であり、我々と同じ敬虔なカトリック教徒だ」
公爵は拳を握りしめた。


「このたびは、弟君のイタリア方面軍最高司令官就任、おめでとうございます」
マリー・ド・メディシスは、広大な庭に面した眺めの良い高い窓を背に座って、にこやかに公爵に椅子をすすめた。
「ありがとうございます。殿下」
公爵はこの旧知の仲である壮年の貴婦人に深々と頭を垂れた。
「わたくしが陛下にお願いした甲斐がありました」
マリー・ド・メディシスは立って窓辺に歩いた。
このとき既に齢五十を越えていたが、肌はつややかで、身に纏うものにはどこか洗練された雰囲気が漂っていた。メディチ家特有の低い顎にはどこか貫禄が備わり、その上には何かを見抜くようなまなざしが光っていた。
「次はあなたの番です。マリヤック公爵を一年以内に宰相にすると、陛下の約束をとりつけました」
「かたじけなきお言葉でございます」
窓の外には、幾何学形に刈り込んだ木立ちが広がり、その上を小鳥がさえずっていた。
「リシュリューはあなたを目の敵にしているでしょうね。でももう少しの辛抱です。あの男が、まるでカードの表と裏を弄ぶように宗教を利用するのは好きになれません。わたくしの反対を押し切って、妹の嫁ぎ先であるマントヴァにも軍隊を派遣しました」
「太后殿下ならば、我々の気持ちをご理解くださるものと思っておりました」
「リュソンの司教だったあの男を抜擢したのはわたくしです。でも、今や国王陛下までを言いなりにして戦争に巻き込む始末……あの男は力をつけすぎました」
「切れすぎる剣は禍をもたらします」
「ここだけのお話、マリヤック公爵……」
マリー・ド・メディシスは声をひそめた。
「リシュリューに反感を持っているのはあなただけではありません。仲間を集め、あの男を追放する時機を待つのです」
「それは……もし陛下が反対されたら……」
「そのときはガストンを王にします」
太后は決然と言い放った。
「お気持ちを強く持って。フランスの将来はあなたの肩にかかっています。公爵」
マリヤック公爵はしばらく黙っていたがやがて口を開いた。
「太后殿下のお言葉なら覚悟を決めました」
「もうここにきてはいけません。連絡役にはわたくしの間諜を遣わします」
マリー・ド・メディシスは自ら戸口まで歩いて公爵を見送った。
「お気をつけて」
「殿下こそお達者で」
公爵は太后の手の甲にそっと接吻すると、静かな足取りで歩きはじめた。


パリきっての目抜き通りのロンバール通りには、荷車や通行人がせわしなく行き交っていた。
「実は最近、誰かに後をつけられているような気がするんだ」
ダルタニャンは辺りを見回しながらおもむろに口を開いた。
「気のせいかなあ」
アトスは腕を組んでしばらく考え込んだ。
「……そういえば、僕も最近そうなんだ」
「ひょっとしてラクダの残党とか?」
「はは、まさか……」
そのとき、ダルタニャンとアトスの背後から足音が近づき、大きな黒い影がしのびよってきた。
「だ、誰だ!」
二人は慌てて振り向いた。
「よう、お二人さん!」
そこにはポルトスが、切り売りのパイをほおばりながら立っていた。
「なあんだ、ポルトスか」
ダルタニャンは胸をなでおろした。
「じゃあ、僕はこれからこっちの方に用があるんだ。また明日」
十字路でアトスは手を振りながら別れた。


「何の話をしてたんだ?」
「いや、最近誰かに狙われているような気がしてね」
ダルタニャンとポルトスが再びその先の小路を歩きはじめたそのとき、路地裏からばらばらと人影が飛び出てきた。
「いたぞ!こっちだ!!」
ダルタニャンの前に大柄な修道士がたちはだかった。
「間違いありません!この二人です!」
修道士はポルトスを指さした。
「お前らだな、フェルナンド神父様を川に突き落とし身ぐるみはいだのは!」
修道士の集団をかきわけ、年老いた懺悔聴解僧が姿をあらわした。
「このお若いの。嘘をついて人をだますのはよくないのう」
ダルタニャンは、その懺悔聴解僧の顔を思い出した。
「ああ、鉄仮面処刑のときのお坊さん……!ごめんなさい。あのときは仕方なかったんです」
「そうなんです。国王陛下を助けるためだったんです。許してください」
ポルトスも弁明した。
「この罰当たりめ!カトリックの僧侶を川に突き落とすなんて何たる不道徳!」
「こらしめてやる!」
「神父様の敵討ちだ!」
いつのまにか、二人は手にホウキや杖、木切れを持った修道士たちに囲まれた。
「ポルトスやめろ!相手はお坊さんだぞ」
ダルタニャンは剣を抜こうとしたポルトスの手を押しとどめた。
「仕方がない。逃げろっ!」
僧侶たちが今まさに飛び掛かろうとしたそのとき、ダルタニャンとポルトスは小路を一目散に駆けだした。
「待て〜!」
「待てぇぇ!!」
「おしおきに川に突き落としちゃる!」
二人は建物に挟まれた路地裏の道を走りながら、止まっている荷車を次々と倒してバリケードのように道を塞いだ。
「このやろう、待て〜!」
修道士たちは、その障害物の上を乗り越えながら追いかけてくる。
さらに、大通りまで出ると、ポルトスは道端の籠をそのまま拾いあげると、追っ手に投げつけた。
籠のなかから無数のヒヨコがちらばり、修道士たちの頭に降りかかった。
「うわっなんだこれは!」
人気のないいくつかの角を曲がり、ようやく、追っ手が視界に入らなくなった。
「ふう。一難去った」
ポルトスは多めにかいた額の汗をぬぐった。
ダルタニャンはふと思い出して飛び上がった。
「いっけない!コンスタンスとの約束、忘れてた」


太陽が西に傾き、夕焼けに染まったドーフィーヌ広場には、黒だかりになった群衆がぽつぽつと帰り支度をしていた。
「もう!ダルタニャンたら。私、ずっと待ってたのよ!」
コンスタンスは不機嫌そうに腰に手をあてた。
「ごめんよ。コンスタンス。お坊さんたちに追いかけられていてさ」
まだ息をはずませながら、ダルタニャンは続けた。
「お詫びに明日埋め合わせするよ」
「もう、いいの。今日でなくちゃ意味がないの」
そのとき掘っ建て小屋の舞台の上で、仮面をつけた大道芸人がリュートの弦をはじきながら唄いはじめた。

君を夏の陽にたとえようか。
いや、君はずっと美しく穏やかだ
愛は時に仕える道化ではない




【つづく】
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