欺かれた人々の日

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  第1話 <白い蝶>  


朝焼けに照らされた街路に、色づいたプラタナスの葉が点々と影を落としていた。
濃厚にたちこめた靄の向こうから、遠く一台の馬車が音もなくあらわれ、三階建ての塔のある城館の前に静かに横付けした。

「最近、朝は冷えるようになったな」
ロシュフォール伯爵は、アーチ下の小路の影に身を隠しながら、足を踏み鳴らし、手袋をはめた。
護衛隊長のジュサックが、あくびをしながら姿を現わした。
「夜明け前からの張り込み、お疲れ様です」
「ジュサック、奴は必ずここに現れるんだな」

そのとき、馬車の扉のが小さな音を立てて開き、ひとつの足音が長い裾を翻しながら、石畳の上に着地した。
その人影は、開け放たれた門をくぐり、城館の中に入って行った。
「あれだ。行くぞジュサック!」
ロシュフォール伯爵とジュサックは、足音を忍ばせながら、建物のなかに飛び込んだ。
人影はいったんあたりをうかがうと、軽やかな足取りで、石造りの階段を昇って行く。かかとの高い靴、長い裾にはちらちらと金の縫い取り刺繍が見え隠れしていた、そして頭には広い縁のある帽子の上に、沢山の白いふわふわした羽が揺れていた。
「間違いありません。あの女です」
階段の下で、ジュサックはロシュフォールにそっと耳打ちした。

女は、ポケットから鍵をとり出し、二階の一室の鍵を開けた。そして、もういちど注意深く辺りを見回し、ゆっくりと中から鍵を閉めた。
「どうします?」
「様子を見るんだ」
ジュサックは、鍵穴を覗きこんだ。
「見えるか?」
その後ろで、ロシュフォールは尋ねた。
「はい。今、暖炉の石を外しました」
女は、暖炉の上の燭台に手を伸ばし、それをどけると、その下の暖炉の石がひとつ外れた。そしてその窪みの中に手を入れると、何やら箱のようなものを取り出した。箱の中から白い紙を引出して胸にしまいこみ、入れ替わりに薄紙のようなものを押し込んだ。
「やっぱり、奴は<白い蝶>……」
ジュサックはつぶやいた。
「何だ、その<白い蝶>ってのは?」
「太后のスパイです。あの帽子の白い羽から、そう呼ばれてるんですよ」
「顔は見えるか?」
ジュサックは鍵穴に目を近づけた。
「マスクをつけてます」
「他に特徴は?」
「……胸がでかいです」
「ばかもんっ。どこ見てるんだ!」
ロシュフォールは後ろからジュサックの頭を叩いた。
「い、痛いです」
「俺にも見せろ!」
「やです」
そのとき、ズギューンという音が聞こえ、鍵穴に銃弾が命中した。
「ほれみろ、気づかれちまったじゃないか!」
壊れたドアの後ろから、二人は一斉に部屋の中に飛び込んだ。
「白い蝶々さんよう。お、俺たちは泣く子も黙る枢機卿の右腕と言われていてな」
ジュサックは声に凄みを込めた。
「太后の女官が、外国の密偵と連絡をとりあっていることは、わかってるんだぞ」
「さあ、その手紙をこちらによこしたまえ。命だけはリシュリュー閣下の名前に免じて助けてやろう。」
ロシュフォールは手を伸ばした。
<白い蝶>は返事の替わりに、短銃の引き金をひいた。
「ひええっ」ジュサックの帽子が吹っ飛んだ。
「ご、護衛隊長を怒らすとこわいんだぞっ!!」
ジュサックとロシュフォールは剣を抜いた。
女は無言のまま短銃をしまうと、窓辺に駆け寄り、体当たりで窓の桟を蹴破ると、音もなく下の小路に着地した。
「き、消えた……」
「な、なにをぼやぼやしてるんだ、ジュサック!護衛隊を集めて追わせるんだ!!」
「待ってくださいよ。ロシュフォール様。手紙が欲しいなら、暖炉の中にあるじゃないですか」
ジュサックは暖炉に近づくと、燭台をどけて中の箱を取り出した。
「これです。<白い蝶>の通信文があるはずです」
ジュサックは、箱の中に手を入れた。
「ロシュフォール様っ。ありましたっ!!!」
そして自信満々に白い半透明の物体を広げた。
「何ですかこれ?」
ジュサックが広げたものを見て、ロシュフォールはぎょっとしてのけぞった。
「へ、へびいっ!?」
「いえ、ようく見てくださいよ、ヘビの抜け殻ですよ」
ジュサックはロシュフォールの目の前に、長い抜け殻をかざした。
「や、やめろっ。俺はヘビが苦手なんだ」
ロシュフォールはしりもちをついて後ずさりした。
「いえ、だから、ヘビじゃなくて、ヘビの抜け殻ですってば」
ジュサックはにこやかにロシュフォールの手にそのモノを握らせた。
「ぎゃああああああああ!やめてくれえええええええええええええええええ!!!!」
ロシュフォールは手足をばたばたさせてその場から逃げ出した。
「ロシュフォール様、へんなの」
残されたジュサックはつぶやいた。


枢機卿の邸宅。
宰相リシュリューはこのところ徹夜続きで睡眠が十分にとれなかったせいか、目の下には隅ができ、顔はやや青ざめていた。

「猊下、ケルンのルーベンス工房からの使いの者がきました」
「で、用件は?」
リシュリューは書類から顔を上げずに言った。
「支払催促です」官吏は手短かに述べた。
「何の支払だ?」
「マリー・ド・メディシスの連作、もうかれこれ十年もお代金を頂戴していないとのこと」
「そんなもの太后のところで処理すればよろしい」
リシュリューは面倒臭そうに答えた。
「それが……太后は払えないから猊下のところで払ってもらえと…」
「いくらだ?」
官吏は無言で書類を差し出すと、リシュリューは思わず立ち上がった。
「……」
「いえ、ですからルーベンス画伯は当代一の名絵描きでして、したがってギャラの高さも当代一……」
「何故フランス人画家を使わん。フィリップ・ド・シャンパーニュがおるではないか」
「いえ、太后はフランス人絵描きを信用してませんので」
官吏は、さらにもう一枚の書類を持ってきた。
「それだけではありません、巨匠とその一門の渡航費と宿泊費、そして国賓級のおもてなしの接待費、全て未払いのままです」
「猊下、申し上げます」
部屋の中にもうひとりの官吏が入って来た。
「リュクサンブール庭園の泉の工事費用の支払い催促です」
「泉の工事……?聞いとらんが」
官吏はリシュリューの机に書類をバサッと重ねておいた。
「太后殿下がお命じになった工事はここ三年間述べ十回。噴水から水か漏ることへの修理費用です」
「どうして十回も工事する必要があるのだ?」
「工事のためにフィレンツェから呼び寄せた職人たちは、おしゃべりばっかりで仕事は全然進まず…挙句の果てに、重要な機材を忘れたとか言って、イタリアに戻ってしまいました」
リシュリューは、思わず机の上の書類を叩き、頭を掻いた。
「あのフィレンツェ女……金遣いが荒すぎる!!」

「ダルタニャンこっちよ、こっち」
コンスタンスは人ごみをかきわけて、ドーフィーヌ広場を進んでいった。
広場の奥には小さな掘っ建て小屋の仮設舞台が作られ、その周りに群衆がひしめいていた。
「何が起こってるんだ、この混雑ぶりは」
ダルタニャンは帽子をおさえながら、コンスタンスの後に従った。
「二か月前からコメディア・デラルテ(即興仮面喜劇)がパリにきているの」
「何だそれ」
「あの人が、人気の大道芸人タバランよ」
コンスタンスが指差すと、その先の舞台上には、奇妙な鼻の高いベルガモ風の仮面をつけた小男がいた。
その大道芸人が何やら喚くと上からタライが落っこちてきて、舞台の上ですっ転んだ。
広場の人々の間に笑いが広がり、喝采が起こった。
「さあ皆さんお立合い、お立合い。笑ってちょうだい、今日もまた。これを見なけりゃ損をする」
大道芸人は口上を並べた。
「ね、とっても面白いでしょ」
コンスタンスは笑いながら、ダルタニャンの腕をとった。
「ふうん。君がお笑いが好きとは知らなかったよ」
「明日もまた、ここで待ち合わせしていい?」
「いいよ」ダルタニャンはひと呼吸躊躇した。
「だけど、ここは人目が多すぎやしない?」
「どうして?」
「いや、なんでもない」
ダルタニャンは晴れない顔でつぶやいた。

そのとき、ひとつの小さな黒い馬車が、ドーフィーヌ通りに差し掛かった。
馬車は音もなく止まると、窓の覆いが上げられ、なかからマスクの女が顔を出した。女は胸元から手鏡を取り出すと、太陽にかざした。
二回、三回、鋭い光が広場を横切る。
舞台上の大道芸人は、合図の光に気づくと、やおらリュートをとり出し、
弦をはじきながら唄いはじめた。

この世は全てひとつの劇場 
男も女も皆役者
入場があり退場があり
ひとりひとりが幾多の役を演じ続ける

「何だか詞が変わった。暗号みたいね」
コンスタンスは隣のダルタニャンにささやいた。
馬車の中のマスクの女は、唄を聞き届けると、窓の覆いをパタンと下げた。
頭にかぶった帽子の上に、白いふわふわした羽飾りが揺れていた。




【つづく】
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