渡る世間に仕立て屋あり

BACK | NEXT | HOME

  アトスの賭け  

夜も暮れゆくころ、酒蔵の一角を改造した半地下の居酒屋に
男たちがめいめいカンテラを下げて集まりつつあった。
乳白色の石灰岩を無造作に積み上げたアーチ形の柱が、
低い天井を支え、酒の匂いと酔った客のさざめきが空気に充満した。
「おーい、何か面白い知らせはないかねえ」
「さあねえ。枢機卿は本当に戦争をおっぱじめるつもりかい」
男たちは目の粗い木のテーブルを囲んで、フィアスコとよばれる底の丸いガラス瓶になみなみとつがれた
ぶどう酒を直接あおっていた。
「あるある。二大仕立て屋の命運を賭けた対決。ボナシューとペルスラン」
給仕の男が、フィアスコ瓶を運んできた。
「そりゃあペルスランが勝つに決まってんだろ」
「パリの仕立て屋の王。どんなお偉いさんも彼の決めた順番には従うぜ」
「あったりまえだろ」
男たちは笑った。
そのとき、ドアがバタンと開いて、赤い制服の護衛士が入って来た。
「いつもの一本」護衛士は給仕に声をかけると、テーブルに近づいた。
「何やってんだ」
「賭けだよ。ボナシューとペルスラン、どっちが勝つか賭けてんだよ」
「そいつは面白そうだ」
「ペルスランに賭ける」
「俺も」
「おやおや、ボナシューに賭けるものはひとりもおらんのか」
護衛士はテーブルの上に飛び乗って、ホールじゅうに聞こえる声で叫んだ。
「皆ペルスランか。こんなんじゃ賭けになんないよ」
「はっはっは」一同笑った。
「ボナシューに賭ける」
そのとき、暗がりの片隅でぼそっと声がした。
「へっ?」
皆一斉に声の主の方を振り返った。
「ボナシューに賭ける」
男は立ち上がった。前髪は少々乱れ、足元はふらつきながらも、
どこか整った身なりと優雅な物腰は隠せなかった。
アトスだった。
アトスは、焦点のあわない目で、テーブルの上の瓶をぐい掴むとらっぱ飲みした。
「ボナシューに賭けるものは私ひとりか?」
そして口元をぬぐうと、瓶を勢いよくテーブルに置いた。
一同しんと静まりかえった。
アトスはつかつかと護衛士の方に歩みより、なみなみとつがれたもうひと瓶のぶどう酒を置いた。
「飲め」
護衛士は負けじとひと瓶らっぱ飲みした。
「飲め!飲め!飲め!」
空っぽの瓶が置かれると、ホールの中から歓声があがった。
「おお――っ!」
「賭け金はひとり1ピストール。いいな」アトスは椅子の上に立って叫んだ。
「お前が負けたら、ここにいる奴全員に1ピストールずつ払う」
護衛士も負けずにテーブルの上に飛び乗って叫んだ。
「いいぞーいいぞー!」
「ヒューヒューッ!」
「その代わり、私が勝ったら全員分の賭け金をいただくことにする」
アトスは返した。
「おもしれ――!」
酔っ払いたちはわいわいと騒ぎ立てた。
「ふっ無理だな。ペルスランは猊下の庇護を受けている」
禿げ頭の先まで真っ赤になった護衛士はろれつの回らない声で叫んだ。
「それはどうかな。ボナシューには勝算がある」
アトスは帽子で顔をあおぎながら答えた。
「お前は知らんようだが、猊下はこのたび外国製の絹織物を統制下におくことになった。ペルスランに独占させるためさ」
護衛士は足元をふらつかせて調子にのって続けた。
「お、俺たちが両替橋の水車小屋まで持って行ったんだ、へっ間違いはないさ」
「ほう」
アトスの瞳の奥がきらりと光った。

そのとき、ドアがばたんと開いて聞きなれた声がした。
「アトス!ここで何やってるんだ」
青い銃士隊の制服を着たアラミスが手にカンテラを下げて、大股でつかつかと歩いてきた。
「ポルトスが探してる。行こう」
「ふう。酔っぱらった」
アトスは帽子で顔を仰いだ。
「勤務中だぞ」
「わかっている」
二人が居酒屋を出ると、外には涼しい風が吹いていた。
そのとき、アトスの懐からはらりと白いものがこぼれおちた。
「手紙?」アラミスは拾って渡した。
「ああ、故郷からだ」アトスは受け取るとそれを広げた。
「領地に戻って来いとの催促だ。伯爵家の跡継ぎには逃れられない宿命さ」
アトスは自嘲気味に笑った。
「家門の連中はみな先祖代々の領地の存続しか頭にないさ。僕が戦争で死ぬ前に子孫をもうけよと、
見合い話をしこたま用意して待ち構えている」
「いいじゃないか。君さえよければ」
アトスはふらつきながら、アラミスの手首をぐいと引っ張った。
「……女は嫌いなんだ」
「そんなに嫌なら家を出ればいい」
アラミスはアトスの手を振り払った。
そのとき、二人の背後から、護衛士たちが酔っ払いながらがやがやと酒場を出てきた。

「しっ」
アトスは急に真顔になり、アラミスを壁の窪みに押し込んで身を隠した。
「護衛隊のひとりから酒場で聞き出した。両替橋の水車小屋に押収した布地がある」
「なんだ、今までのは芝居だったのか」
アラミスはため息をついた。

シテ島の中央から右岸にかけて架けられた両替橋は、橋の両側に色とりどりの両替商の小屋が
へばりつくように並んでいた。昼間と異なり、夜は人通りがひっそりと途絶え、どの小屋も厳重に鎧戸を降ろし、静まり返っていた。
その中途に、小さな掘っ建て小屋があり、その下からセーヌ川の水をくみ上げるためのやぐらが伸びていた。
「ここだ」
アトスとアラミスは両脇に身を隠したあと、勢いよく粗末な木製の鎧戸を蹴破って中になだれ込んだ。
「国王の銃士隊だ」
小屋の中では、先ほどの護衛士たちが酔っぱらったまま酒盛りの続きをしていた。
「何だ?貴様らは」
護衛士たちは立ち上がった。
「ここはリシュリュー閣下の管轄下と知ってのことか」
「畏れ多くも陛下の御前での勝負に卑劣なやり方を持ち込むとは。リヴォルノからの生地は渡してもらおう」
アトスとアラミスは剣を抜いた。


「ねえ、ねえ、あなた」
ボナシューは深いまどろみの中で目を覚ました。
目の前には、屋根裏部屋の寝台に横たわった、痩せ細った妻の横顔があった。
「あなたの手、好きよ」
妻は手を伸ばすと、白くて骨だけになった指をボナシューの手にそっと絡ませた。
「あったかくて、大きくて……」
ボナシューは強く手を握り返した。
すると、妻の指は仕立て屋のごつごつした手をいとおしむように撫でた。
「幸せを生み出す手……」
ふと、その指の力がふうっと抜けていき、緑の目がうっすらと閉じられていった。
ボナシューは狂わんばかりに妻の名を呼んだ。

「……!」
ボナシューは、目を覚ますとがばっと起き上がった。
額には脂汗がべったりとうかびあがっていた。
「今何曜日だ?」ボナシューは尋ねた。
「旦那様、お気づきになたんですか。良かった。今金曜日ですよ」
マルトが水差しを片手に寝室に入って来た。
ボナシューは寝間着のまま仕事場に入ると、そこには裏地だけを仮縫いした国王の衣装が架かっていた。
「ボナシューさん!」
ジャンが駆け寄った。
「何日間も熱にうなされていて心配したよ。おいらが他のお客さんの寸法どりやってみたよ。見よう見まねだけど」
「ボナシューさん、良かった!」
そのとき、仕事場にカトリーヌが駆け込んできた。
「リヴォルノからの荷物が見つかったんです!」
戸口にポルトスの巨体があらわれた。
「ポルトスさんが取り返してくださったんです」
ポルトスの肩には大きな包みが担がれていた。
「いやなに、取り返したのはアトスとアラミスですよ。あいつら、これを俺に持ってけって押し付けやがったんです」
ポルトスは照れながら頭を掻いた。
「これで表地が縫えるよ。ひと安心だ。ボナシューさん」ジャンは言葉をはさんだ。
「ありがとう。みんな」
ボナシューはひとりひとりの顔を見た。
「あと5日しかないが、やれるところまでやってみるよ」

ルーブル宮殿の水辺のギャラリーの一室では。
窓辺で手紙を読んでいたアンヌ王妃は、指を震わせた。
「なんてこと……」
「どうなさったのですか。王妃様」
コンスタンスは無邪気に顔をあげた。
「シュヴルーズからの知らせです。リシュリューは、ザクセン選挙公の娘を陛下にあてがおうと画策しているらしいのです」
「そんな……。王妃様というお方がありながら、そんなことできるわけありませんよ」
「いいえ、リシュリューは私を陥れるためには何だってやるでしょう」
アンヌ王妃は窓辺に行ってがっくりと肩を落とした。
「王妃でありながら子供に恵まれない私などは、リシュリューにとっては単なる政策の邪魔立てにしかすぎぬわけですから」
「王妃様……」
コンスタンスは王妃に近寄った。
「もし、若くて美しい王女が陛下の心を捉えたら……」
「そんなことはございません。王妃様は王妃様のお美しさがございます」
コンスタンスは凛として言った。
「それはわたくしが存じております。もし、王妃様を陛下の前で輝かせて差し上げることができないのなら、それは、衣装係であるわたくしの落ち度……」
「どうか、わたくしにおまかせください。王妃様」
コンスタンスは一礼すると、衣裳部屋に入って行った。

蝋燭の明かりがほのかに灯る、
フォッソワイユール通りの仕事部屋では。
「裁断した生地を順番通りに並べたよ。ボナシューさん」
ジャンは、生地の切れ端を作業台の上に持ってきた。
「ああ、ありがとう」
ボナシューは、縫う手を休めずに言った。
「これ……?」
ジャンがふと作業台の上を見ると、1ピストール金貨が無造作にはさみや巻き尺の間に置かれていた。。
「陛下の肖像だよ
鈍く光るコインの真ん中にはルイ十三世の肖像が打ち出されていた。
ボナシューは目を細めた。
「いつも服を作るとき、着る人の顔を考えるんだ」
「どういう人で、この服を着てどんなことをしたいんだろう、ってね……」
「じゃあ、今は国王のことを考えているの?」
「今はね。でも他のお客さんの場合も同じだ」
「ふうん」ジャンは、縫い途中の服とコインの肖像とを見比べた。

壁に架かった守護聖人マルティヌスの浮彫りが、まるでこの場を見守るかのように、
蝋燭の明かりにちらちらと照らされて、揺れていた。

BACK | NEXT | HOME
inserted by FC2 system