渡る世間に仕立て屋あり

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  師匠と弟子  



サン・トノレ通りから奥に入った、人ひとり通れるかくらいの細い路地では、
表通りの明かりに照らされた無数の影が、そびえたつ壁に黒々と伸びていた。
「僕を呼び出したのはどういうわけです?ボナシュー親方」
路地の奥から声が響いた。
「仕事場を抜け出すのにひと苦労しましたよ」
足音が近づき、人影が姿をあらわした。
「ジャック」
ボナシューはその名を呼んだ。

「ペルスランの真意を知りたい」
肩まで髪を伸ばした赤毛の青年は、ボナシューの前まで来ると何も言わずに立ち止った。
「真意も何も」
ジャックは口を開いた。
「腕試しですよ。腕に覚えのある仕立て屋なら誰しも、自分の名声をとどろかせたいと思う、それは当然ですよ」
「腕だと?」
ボナシューは繰り返した。
「手を見せて見ろ」
ボナシューは、やおらジャックの手首を取って自分の前に引き寄せた。、
「きれいな手だ。はさみも針も持たない、図面ばかり引いている手だ」
「その通りです」
「フーヴェ男爵夫人の舞踏服を仕立てたのはお前だろう。襟ぐりの形ですぐにわかった。あれは私が教えた形だ」
ボナシューは穏やかに言葉を続けた。
「だが、何故裏地を省いた?縫い目もまるで不揃いだ」
「職人にそのように指示しました」
ジャックはふと目をそらした。
「縫うのは僕の仕事ではありません」
「なあ、ジャック」
しばらくの沈黙の後、ボナシューは口を開いた。
「わたしらは、地を這う職人でいいじゃないか。簡単に空を翔べると思うな」
「どうしてです?ペルスラン親方は、仕立て屋はその才覚次第で、職人たちの頂点に立ちうる存在だということを教えてくれた。あんたたちは旧来のギルドのしがらみに縛られてばかり。自ら奴隷労働に甘んじているだけなんだ」
赤毛の弟子は下を向いた。
「だから、僕はあんたのもとを出たんだ。ボナシュー親方。あんたのやり方に疑問を持った」
「だがな、ジャック。お前の言っているのは仕立て屋ではない」
「何が仕立て屋かは、二週間後国王陛下の御前で明らかになります。国王ひとり満足させられない仕立て屋が、
どうして仕事を語ることができましょうか」
「わかった、ジャック」
ボナシューはおごそかに言った
「私も負けるつもりはない。じゃあな、また」
そう言い放つと、くるりと踵を返し、ボナシューは
まだ酔った客や帰宅途中の衛兵たちで騒がしい表通りに出て行った。

フォッソワイユール通りのボナシュー工房では。
しんしんと闇が深まる時間に、蝋燭の灯が作業台の上を照らし出していた。
「お父さん、今夜もまた根詰めて平気なの?」
カンテラを下げて仕事部屋に入って来たのはコンスタンスだった。
「ああ」
ボナシューは、はさみを片手に振り返った。
「先に裏地から始めることにしたよ」
作業台の上には、何度も線を引いて黒ずんだ図面と、布屑が散らかっていた。
「お父さん」コンスタンスはこらえきれずに言った。
「今までずっと考えてきたんだけど、私、王妃様の侍女を辞めようかと思うの」
「それは、一体どうしてだい?コンスタンス」
「だって、いつも私のせいでお父さんに迷惑をかけてばっかり。私がバッキンガム公爵の手紙を預かったばかりに、お父さんは牢にいれられた。今度のことだって……」
「そんなことはない。今度のことは、それは私が仕立て屋だからだ。お前とは関係ない」
「いつもお父さんの力になれなくてごめんなさい」
「コンスタンス」
ボナシューは、娘の肩に手を置いた。
「私のことは心配せんでいい。私の力になるよりも、王妃様やダルタニャンの力になってやるんだ。お前を信じてくれる王妃様のお気持ちに背いてはいけない。真心をこめてお仕えするんだよ」
そのとき、ボナシューは思わずごほごほと咳き込んだ。
「大丈夫、お父さん?」
「大丈夫だ、時間がない。仕事に戻るよ」
ボナシューは再び作業台の前に腰掛けた。
「お休み、コンスタンス」
「おやすみなさい、お父さん」
コンスタンスはそっと父親の姿を振り返った。

朝一番のトレヴィル殿の邸宅では、まだ誰もいない廊下の窓から
雲雀の鳴き声が聞こえてくる。
「どういうことでしょう?」
アラミスは執務室の扉を開けた。
「ダルタニャンとアトスから聞きました。ラ・ロシュルへの出陣の準備をせよという命令が陛下から出たとか」
アラミスはつかつかとトレヴィルの前に詰め寄った。
「私は何も聞いていません」
「さよう」
トレヴィルは机の前でうなずいた。
「何も言っとらん」
「私を臆病者とお思いですか?」
「前線はパリとは勝手が違う。飢えや伝染病、略奪に裏切り、何でもありだ。私の銃士隊に入隊するには、まず地方の部隊で野戦を経験して手柄を立ててからというのが習わしだ。いくら剣の腕や向うみずな勇気があっても、一軍の将たるにふさわしい行いをしてくれんとな」
「ベル・イールでの私の働きをお忘れですか」
「マリー・ド・メディシス太后殿下は、この前のお前の働きをたいそう気に入ってくださった」
トレヴィル隊長は言葉を続けた。
「知っているだろう。太后殿下は、多くの女官を間諜として身近に侍らせている。その中には……」
「隊長」アラミスは言葉を遮った。
「命令をください」
「……ふむ」
長い沈黙の後、トレヴィルは背中を向けて立つと、窓に近寄った。
「昔、私が若いころ、アラスの攻囲戦で失った戦友がいてな。まだ若かった。奥さんと生まれたばかりの娘の名前を呼びながら、私の腕の中でこと切れたのを昨日のように覚えているよ。運命は過酷なものだ。私もこの歳になると、父親のような気持ちになってくる……」
トレヴィルは急に部下に向き直った。
「出発は二か月後だ。戦いは長期になるだろう。遠征の荷物と武器をまとめておけ」
「ありがとうございます。隊長」
くるりと部屋を出て行こうとしたアラミスの後をトレヴィルの言葉が追いかけた。
「だが、忘れるな」
「もし、私が死んだり、失脚したりしたら……?」
「そのときは、そのときです」
アラミスは扉を閉めた。
いつの間に空は厚い灰色の雲で覆われ、その切れ目から、雲雀が黒い点々になって、飛び去って行った。

サン・トノレ通りのペルスランの店では。
「これは、これは枢機卿御自らお越し下さるとは」
ペルスランは満面の笑顔でリシュリューの到着を迎えた。
「この前の緋色のガウン、気に入ったぞ。俳優たちの舞台衣装は順調に進んでいるかね?」
「はい、それはごもっとも」
ペルスランは指輪をはめた手でもみ手をして答えた。
「それから、陛下の狩りの衣装も」
「はい、それはもう間違いなく。最高級のコルドヴァの金の緞子を手に入れまして。まことに雅な出来になると思います」
「楽しみだな」
「はい猊下。私の右腕のジャックがおります」ペルスランは顎をしゃくった。
「私が弟子のジャックです」赤毛の青年は枢機卿に一礼した。
「ボナシュー親方の手の内は知り尽くしています。もう、勝負があったも同然じゃないですか」
リシュリューは、鼻先でふふんと笑った。

午後から風向きが変わり、黒雲から冷たい雨が降り注いだ。
ボナシューは、家の軒下に梯子を立てかけて、釘で看板を打ち付けていた.
先端がやや曲がったはさみ型の看板から、雨のしずくが滴り落ち、
仕立て屋の肩へ肘へとつたっていた。
急に雨の勢いが増したそのとき、ボナシューは梯子から足を滑らせた。
「うわっ」
そしてその場に倒れ動かなくなった。
「旦那様っ…!」
物音を聞きつけたマルトが駆け寄る。
「ボナシューさんっ。駄目だよ。こんな雨の日に無理するから」
ジャンも耳元で叫んだ。
「大変、すごい熱!」
ボナシューの額に手を当てたマルトが声を張り上げた。
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