渡る世間に仕立て屋あり

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  ジャンの迷い  


「ねえ、扉の破れ目、修理しておいたよ」
アラミスの家の、木製の扉の裂け目には、板切れが留め付けられていた。
ジャンは、釘をくわえたまま、散らばった木材の中で一息ついた。
「最近ぶっそうだからね。ついでに、内側のかんぬきも二重にしておいたよ」
ジャンは木屑を振り払った。
「ありがとう。ジャンは器用だな」
「へへ。こういうことはおいら得意なんだ」ジャンは鼻の頭を掻いた。
「お礼といってはなんだけど、お昼でも食べていかないか?オムレツくらいだったらご馳走できるよ」
「へえ、いいの?」
間もなく簡素な台所から、卵を割る音が聞こえると、
焼きたてのじゅうじゅういっているオムレツがテーブルの前に出てきた。
「いただきます!」ジャンはひとさじすくって口に入れた。
「あのさ、おいらボナシューさんのところで徒弟修業しようと思うんだ」
「ジャンは仕立て屋になるのかい?」
アラミスも自分のオムレツをテーブルに持って来ると、ひとさじすくって口に入れた。
「いや、母ちゃんがそうしろと言うんだ」
「ジャンはどうしたいの?」
「おいらは…おいらは…」ジャンのスプーンを持つ手が止まった。
「ねえ、この間おいらが発明した脱獄装置、改良したんだ。飛距離も伸びて、もっと遠くからでも脱獄できるよ」
「ジャンはそういう道具を作るのが好きなんだよね」アラミスは相槌をうった。
「うん。そういう武器を作ってさ。みんなと一緒にまた冒険したいんだ。でも母ちゃんが、それと食べていくための仕事は別だって言うんだ」
ジャンが言葉を続けた。
「地を這う鼠は所詮鷹にはなれないって、母ちゃんは言うんだ」
「そうかな」
アラミスは最後のオムレツのひとかけらを口に入れた。
「鼠だって翼を持てば飛ぶこともできるさ。迷うなら両方やってみればいいじゃないか」
「そう……だよね」
ジャンはスプーンを置いて椅子から飛び降りた。
「ごちそうさま。オムレツおいしかったよ」
そして、今しがた直した扉の前で立ち止まると振り返った。
「じゃあね。また」
「頑張るんだよ」
アラミスは扉の前で、手を振ってジャンを見送った。

薄暗いボナシューの工房に、ふと人影があらわれた。
「こんにちは。ボナシューさん」
カトリーヌが籠を片手に立っていた。
「ああ、カトリーヌさん」
「レースをお納めしに来ました」
「どれどれ」
カトリーヌは、籠の中から丁寧に布でくるまれた包みをとりだし、紐をほどいて
ビロードの作業台の上に乗せた。
「ほう。さすが。カトリーヌさんのレース編はお客さんにも評判が良くてな」
「そうですか。またよろしくお願いします」
「今度のお客さんは、締め付けが苦手らしいから、細い糸でゆるく編んで欲しいんだ。寸法を渡すよ」
「はい、わかりました」
カトリーヌは寸法と編み図の描かれた紙を受け取ると、おずおずと口を開いた。
「あの、実は込み入ったお話があるんですが……」
「何でしょう」ボナシューは座った。
「息子を、ボナシューさんのところで徒弟奉公させてほしいんです」
「ジャンは何と?」
「あの子も今年で十二。そろそろ一生の職を決めるころです。今もボナシューさんのお手伝いをさせてもらっているのですけど、本当に仕立て屋になる気でやっているのかどうか……」
「でも、それはジャンが決めなければ仕方がないでしょう」
カトリーヌはため息をついた。
「でも、あの子、本当は、心の底ではダルタニャンに憧れているんです」
小さな明り取りの窓の向うで雲雀の鳴き声が聞こえた。
「今までずっと一緒にいたから仕方がないことなのですけれど。けれども、人には生まれ落ちた境遇というものがあります。母親の勝手な願いでしょうけど、私はジャンには仕立て屋になってほしいんです」
「それは、どうして?」
「私の夫は、あの子の父親は、村の石工の棟梁でした。でも、戦争が始まるとすぐに工兵として召集されました。だから、息子には戦争に行ってほしくないんです」
しばらくの沈黙のあと、ボナシューは口を開いた。
「……仕立て屋にだって戦いはあります」
ボナシューは続けた。
「どの道を選んだとしても困難はありますし、いずれにせよ、ジャンが自分で受け入れなければ」

セーヌ川の土手の、枯れた芝生に寝転んで、ジャンは大きく息を吸い込んだ。
夕焼けの空には、灰色の塊の雲が徐々に薔薇色に染まり、その隙間を
雲雀がさえずりながら点々と飛んで行った。
「翼があればなあ。おいらも」
ジャンは声に出してつぶやいた。

「やあ、ボナシューさん!」
口笛を吹きながら、ポルトスがフォッソワイユール通りの工房に姿をあらわした。
「さっき、出て行ったのは、カトリーヌさん?」ポルトスは戸口を振り返って尋ねた。
「ああ、そうだが」
仕事を再開したボナシューの前に、ポルトスはいきなり前のめりになって手をついた。
「胴着を注文したい。ペルスランの店なんてもうこりごりだ」
「はあ」
「襟にレースをつけて欲しいんだ」
「レース?こんなのはどうでしょう」
ボナシューは、今しがたカトリーヌが置いて行ったレース襟を見せた。
「そう、これこれ。え…と、誰が編んだ?」
「カトリーヌさんだよ。ジャンのお母さんの」
「素晴らしい、今まで見た最高のレースだよ。こーんなのが欲しかった」
ポルトスは大げさに手を広げて叫んだ。
「いっぱいつけてくれ。襟と袖と裾とかにも。カトリーヌさんのレースがいい」
「そんなに?あのう、似合わないんじゃ……」
ボナシューの声をポルトスが遮った。
「いいものには投資を惜しまんのが俺の主義だ。お代は前払いでたんまり出す」
「はあ」
「それから」ポルトスは声をひそめた。
「俺が注文主ということは内緒にしてくれ、いいな」
「わかりました」
ボナシューは怪訝な顔で、帳簿とペンをとった。

夜のとばりが降りる頃、台所からぐつぐつとスープの香りが漂ってきた。
「コンスタンスお嬢さんは王妃様のところに泊りで、旦那様は急ぎのお客さんのところに納品に、ジャンは今日はお母さんのところに戻りましたよ」
マルトは湯気のたったそら豆のスープを持ってきた。
「だから今夜の夕食は私とダルタニャンだけ」
「寂しいなあ」
ダルタニャンは堅くなったパンをちぎるとスープに浸した。
「まあ、お行儀が良くないですよ」
「昔からこの食べ方が好きなんだ」
ダルタニャンはスープをかきこんだ。
「そういえば、ボナシューさんっていつもあんなに忙しいのに、どうして弟子をとらないの?」
マルトはダルタニャンのためにオーブンで焼いた肉の一切れを切り分けた。
「旦那様はそういう主義なんですよ。全部ひとりでやった方がいいって」
「王妃様のお召し物を作るくらいの仕立て屋なんだから、もっと店も大きくして、たくさん人を雇ったらいいのに」
「自分の商売を大きくしたがらないんですよ。でも」
マルトは声を落とした。
「でも、昔はいたんですよ。お弟子さん」
「昔はっていつのこと?」
「……」
マルトはこれ以上言いたくないかのように口をつぐむと、台所に戻った。

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