渡る世間に仕立て屋あり

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  市場での出会い  



「えー。セーヌの水はいらんかねー」
パリの中央市場では、桶をかついだ水売りが、口上を響かせながら歩く傍で、露店の肉屋が今朝屠殺したばかりの牛の頭を、獣の血の匂いをふりまきながら、分厚い包丁で叩き切っていた。籠や水瓶を頭に載せた女たちが、世間話をしながら闊歩する灰色の雑踏のなか、ひとり青い制服をきたポルトスは、いつもと同じ繰り返される市場の営みに異変がないかを見回っていた。
そのとき、彼は足元にころころと転がってきた赤い林檎に気づき、ふと身をかがめた。
拾い上げると目の前には、野菜いっぱいの籠を両手にぶらさげたカトリーヌが立っていた。
「カトリーヌさん、ああ、ジャンのお母さん」
ポルトスは林檎を片手に呼び止めた。
「あら、三銃士のポルトスさん?」
カトリーヌも足を止める。
そよ風がそっと彼女の栗毛の髪を揺らした。
「この間はどうも」ポルトスは頭を掻きながらカトリーヌに近寄った。
「あ、これ俺持ちますよ」
当惑しているカトリーヌの手から有無を言わさず二つの籠を取り上げた。
「ずいぶん重いなあ。こんなの毎日持ってるんですか」
「そんなに、重いですか?」
二人は並んで市場の雑踏のなかを歩き出した。
「どうですか。慣れましたか?パリの生活に」
「ええ、ノルマンディーと違って人だらけ。最初は驚きました」
カトリーヌはややうつむき加減に話した。
「その手……」
ポルトスはカトリーヌの手に目を止めた。
あかぎれだらけの手の甲ははところどころひびわれて、木枝のような脈が浮き出していた。
カトリーヌは慌てて手を後ろに隠した。
「いいんです。また息子に食事を作ってあげられるし、息子の服も洗ってあげられるし、嬉しいんです」
カトリーヌはうつむきながら微笑んだ。
「だって、まさか生きて会えるとは思わなかったから……」
「そ、そうですよね。良かったですよね」ポルトスは慌てて相槌をうった。
「最近、私のレース編をボナシューさんところで扱ってくれるようになったんです。ささやかだけど仕事ができて、母子二人でパリで暮らせるようになったんです。ジャンは育ちざかりだからスープのお肉を欲しがるし、新しい仕事はまだまだ覚えることがいっぱい…でも、毎日が幸せなんです」
「そうですか。レース編、お上手なんですね」
ポルトスはどこに同意していいのかわからないまま返事をした。
「あの……」ポルトスは足を止めた。
「今度一緒に飯でもいかがですか?」
「……え?」
「あ、もちろん、ジャンやボナシューさんも一緒ですよ。みんなで楽しくごはんを食べましょうよ」
「ええ…‥あ、それ、ありがとうございました」
カトリーヌは別れ際にポルトスの手から籠を受け取ると、通りの向こうに駆けていった。

洗濯物が道にはためく下町の路地裏では、でこぼこの舗石の上を、
子供たちの一団が歓声をあげながら遊んでいた。
「それいけ、ジャン!」
ジャンが投げた輪は一番奥の棒にひっかかった。
「やったあ!」
子供たちはわいわい騒ぎたてた。
「次はもっと難しいの作ってよ」
「おいらにまかせとけって」
ジャンは鼻の下を掻いた。
そのとき、後ろからコレットが駆け寄ってきた。
「ジャン!」
コレットは浮かない顔でジャンの正面に立った。
「どうしたんだよ。最近見かけないじゃないか」
「お別れを言いにきたの」
「お別れ?」ジャンはおうむ返しに言った。
「明日から女中奉公に出ることになったの。もう一緒に遊べない」
「女中奉公って……」
「父さんもう目が見えないの。だから私が働きにでなくちゃ。つてがあって貴族のお屋敷に住み込みで働けることになったの」
コレットの顔は前よりも大人びていた。
「元気でね。ジャン」
「元気でねって……」
ジャンはコレットの後ろ姿を見送りながら、
何故か取り残されたような気持ちを味わっていた。

「ねえ、ダルタニャン。コレットが女中奉公に出ることになったって」
ジャンは、ボナシューの家の屋根裏部屋の天窓を眺めながら、
隣の寝台のダルタニャンに話しかけた。
「まだ小さいじゃないか」
ダルタニャンは掛布団をかぶりながら同じく天窓を見つめた。
月の光が並んだ寝台の二人の顔を照らし出した。
「でも、もうそんな年ごろなんだよね」
「で、ジャンはどうするんだ?」
ダルタニャンは隣で寝転ぶジャンを横目で見た。
「母ちゃんはこのままボナシューさんのところで修業して仕立て屋になれって言うんだ……」
「いいじゃないか。せっかくボナシューさんだって認めてくれているんだろ」
「ねえ、ダルタニャンは将来何をやるのか考えたことなかった?」
「別に。ダルタニャン家は貧乏だけど貴族だって言われていて、父さんが戦争に行ったから普通に僕も行くもんだと思ってた」
「いいよな。ダルタニャンは迷うことなくて」
「迷うって何をさ?」
「いいんだ。もう」
ジャンは不機嫌そうに布団をかぶった。
「きのうトレヴィル殿のお使いで兵器廠に行ったんだ。リシュリューはラ・ロシュルに集結した新教徒たちを撃つつもりでいる」ダルタニャンは目を閉じながらつぶやいた。
「行くのか?ダルタニャンも戦争に?」
ジャンは布団をがばっとはねのけた。
「父さんが行ったから、僕も行くんだ」
「……」
ジャンはまた布団をかぶり、ダルタニャンに聞こえないように口の中でつぶやいた。
「じゃあ、おいらは一体どうすればいいのさ?」
満月の明かりの前を黒いカラスが横切って行った。

「旦那様、もうお若くもないんだし、そういうことはジャンやダルタニャンにやってもらえばいいじゃないですか」
梯子を担いで家から出てきたボナシューをマルトの声が追いかけた。
「いいや。マルト。これだけは自分でやる」
ボナシューは、梯子を家の外壁に立てかけた。
「お弟子さんでもいれば別なんですけど……」マルトはボナシューに言いかけてはっとした。
「すまんな。マルト。だが、あれは、私が悪かったのだ」
ボナシューは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

ボナシューは軋む梯子のてっぺんまで上ると、軒下に吊るされた鉄製のはさみの看板を、布で力を込めて磨き始めた。
黒々とした錆の厚みは、それがそこに置かれてからの年月を物語っていた。

「ねえ、見て見てあなた」
若き日の妻は赤ん坊のコンスタンスを抱きながら、軒下に打ち付けられている真新しい看板を見上げていた。
「きれいよ。キラキラ光ってるわ」
鋳造したばかりの看板はまるで鏡のように太陽の光を反射していた。
「ばぶ、ばぶ ばあ」
コンスタンスは母親の腕のなかで、光に向かって手を差し出した。
「お客さん、増えるといいわね」
妻は梯子の上の夫に話しかけた。
「ああ」
若き日のボナシューは笑いながら金槌を持つ手に力を込めた。

「あれから十八年。看板はいつもきれいにしているよ」
手に持った布が鉄の錆で真っ黒に染まるころ、ボナシューは、今は亡き妻にそっと語りかけた。

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