十年後!

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  第24話 父と子  


ルーブル宮殿の一角、アンリエット妃の部屋は、マザランが前よりも援助を増やしたのか、以前よりも明るく日当たりはよかった。
喪服を着たアンリエットは、静かに王太子の旅の最後の支度を整えていた。
「パリに平和が戻ってよかったですわ。ラ・フェール伯爵。その節はお世話になりました」
「いいえ。今日は王太子殿下へのご挨拶にうかがいました」
「チャールズはこれからオランダのハーグに出発します。王党派の残党や亡命した貴族たちがおりますので、そこで再起の機会をうかがいます」
「まだ親元を離れるのには小さいですが……」
「いいえ。あの子は王家の人間です。いざとなったら毅然と軍を率い、どんな試練も踏み越えていかねばなりません。いつしか父の果たせなかった夢を、果たしてくれることを私は願っております」
アンリエットは王太子を呼び寄せた。
「さあ、チャールズ。ラ・フェール伯爵にご挨拶なさい。このお方は貴方の王冠のルビーを届けてくださったのですよ」
旅装の王太子は衝立の陰から走りよってきた。
「父上へのご忠誠ありがとうございました。僕はどんなことがあっても、父上の無念を晴らしたい。あなたと神にかけて誓います」
「道中ご無事で。王太子殿下」
アトスはひざまづいて礼をした。
「ハーグまではセント・オールバンス伯爵がお供をしてくれます。伯爵の言うことをよく聞くのですよ」
母は息子の肩に手をかけた。
「はい母上」
王太子の傍らで、長身のイギリス貴族がにっこりとほほ笑んだ。
こうして、未来の国王チャールズ二世は、王座へと続く長くて苦しい旅に出発したのであった。

マレ地区。ルネサンス式ファサードのある邸宅では。
「貴方にしては珍しいですわね。伯爵。急にラウルに会いたくなったなんて」
シュヴルーズ公爵夫人は長椅子に腰掛けながら言った。
「この三か月間、ラウルはとても心配していましたよ。伯爵様はどこに行ったのかって…」
「貴族の男ともなれば、多少の孤独は耐えなければなりますまい」アトスは笑った。
「でも、貴方がサン・タントワーヌ城門外に向かったあの日、わたくしは取り乱しました」
公爵夫人はゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩いて行った。
「わたくしの最初の夫、リュイーヌ公爵は王家の信任厚い軍人でした。貴方のように。リュイーヌは、まだ少女だったわたくしに、宮廷で生きるための教養や、情報収集術、外交術、軍事の知識、全てを教え込みました。わたくしは、それでアンヌ王妃の話相手として信頼されるようになったのです。でも、夫は来る日の来る日も戦争に出かけ、残されたわたくしはただ待っているだけ…。ある日、ロングヴィルの戦いに出かけた夫は急な熱病にかかり戦場で息を引き取りました。ひとり息子を残して」
公爵夫人は言葉を続けた。
「未亡人となったわたくしは、周りの押し付けもあってシュヴルーズ公爵と結婚をしました。シュヴルーズはとりたてて勇敢でもなく、才知に長けているというわけでもない凡庸な男、わたくしにとって、ただ夫の肩書と領地めあての結婚でした。シュヴルーズは、わたくしの心がまだリュイーヌのもとにあると知ってか、胸襟を開こうとはせず、ただ形だけの夫婦でした」
公爵夫人は窓の外を見やりながら続ける。
「でも、今でもわたくしが思い出すのは、リュイヌが冷たい亡骸となった帰ってきたあの朝のこと。今でも、後悔というものが残るとしたら、どうしてあのとき夫の傍らで最期を看取ることができなかったということ……」公爵夫人はアトスに向き直った。
「わたくしも、あの日後悔したのです」
公爵夫人はアトスの目を見つめながら言った。
「マダム。いつかは申し上げようと思っておりましたが、和平が結ばれた今となっては、私が剣をとり戦うこともありますまい。私のお役目も終了したわけです。ブロワの領地に戻ることをお許しいただけますでしょうか」
アトスは目を伏せながら、公爵夫人の手の甲に接吻した。
「伯爵。ラウルを私に預けてくれませんか?」
公爵夫人の申し出に一瞬アトスは戸惑った。
「それは願ってもないことです。マダム」
「将来は銃士隊に入れたいわけですね」
「ラウルはそれを望んでおります」
「貴方は淋しくなるでしょうが…」
「あの子の将来を考えれば、田舎にいるよりもパリの方が多くのものを得られるでしょう」

サン・ドニ大聖堂、ゴシック式建築の上にのびたアーチに支えられた空間から、ステンドグラスの色とりどりの光が差し込んでいた。ミサの残り香が漂うひんやりとした空間の中を、足音だけがこだまする。薄暗い礼拝堂には蝋燭がともり、空気が揺れると炎が揺らめいた。
アトスとラウルは、連れだって歩きながら、紫地に金の百合の縫い取りが施されているビロードの布がかけられた、大理石の石棺の前で足を止めた。
アトスはその前で帽子を脱いだ。
「ごらん。ラウル。これは先王ルイ十三世陛下の棺だ。私が若いころお仕えしていた王は、今はここに眠っている」
ラウルは目をぱちくりさせながら神妙に直立不動の姿勢をとった。
「お前がお仕えする王はその息子のルイ十四世陛下だ。人間は違うが王権は同じだ。父と子は王権というひとつの絆で結ばれている。わかるかい?ラウル」アトスは優しげな口調で語りかけた。
「国王は人間で、王権は目に見えない神の霊だ。ラウル。つまり国王と王権は別のものなのだ。もしお前が迷ったなら、目に見えない方を選びなさい」
「わかりました。伯爵様。僕は、神を信じ、王権をあがめ、国王陛下に仕えます」
ラウルは緊張気味に答えた。
「頼もしい男だな」アトスはラウルの金髪の頭を撫でた。
「もし、お前が剣を抜くとき、迷ったらいつも目にみえない方を信じるのだ。王権や信義、友情…世の中には物質的なものよりも、目にみえないものの方が尊い。今まで姿を見せなかったかもしれないが、信じていてほしい。お前の父と母のことも」
「はい」
「ラウル。父上と呼んでくれ」
アトスはふと言った。一瞬時間が止まった。
ステンドグラスから漏れてくる光が、ちらちらと二人の足元に踊っていた。
「伯爵様?」
「私が父だ」
「お父上…」
「ラウル、これをお前にあげよう。私の父から譲りうけた剣だ」
アトスはひざまずいて、腰につけていた剣をはずしラウルに渡した。
ラウルは両手で受け取ったが、その重さで一瞬よろめいた。
「まだ持てなくともそれで良い。お前がいつの日か一人前になり、
この剣を抜くときは、この父が言ったことを思いだしてほしい」
「はい。父上」
ラウルは嬉しそうに剣を胸に抱いた。「父上…」
アトスはひざまづいたまま、息子を抱き寄せた。
「なあ、ラウル。お前が大人になったとき、愚かな親父だったということを許してくれるだろうか?」
アトスはそっと口の中でつぶやいた。

「こうやって皆揃うのは十年ぶりだ。」ボナシューは満足そうに言った。
フォッソロワイユール通りのボナシュー宅ではダルタニャンと三銃士そろっての晩餐が始まろうとしていた。
「マルトさんにはまだまだ及ばないけれど、今日の食事は私は用意したのよ」コレットが水差しを持ってきた。
「なかなか見事じゃないか。コレット」ボナシューが言う。
「ボナシューさん今日はお招きいただきましてありがとうございます」アトスが席についた。
「さあ、みんな宴会だ。はじめるぞ!」酒瓶を両手にジャンも言った。
「こうやってまた楽しく夕飯を皆で頂けることを、神に感謝します」
ボナシューはまず神に祈りをささげた。
「久しぶりに人間が食うものを食べているような気がする」ダルタニャンは言った。
「こいつも飲んでくれ。イギリスから樽で輸入してきたポルト酒だ」ポルトスは各自の陶器の杯についで回った。
「コレット、ひとりでこれだけの料理を作ったのか」
「なあ、このパイは旨いよ」ポルトスがかぶりつきながら言った。
「パイはね。今はやりノワールモン親父の店からのお取り寄せ。ボーフォール公もベーズモーさんもお気に入りなんだ」
ジャンは答えた。
「ジャン!」アラミスがたしなめた。
「…て話を聞いたけどね」ジャンは慌ててごまかす。
「まさか、その中から猿轡とか短剣とか出てこないだろうな」ダルタニャンは笑いながら釘をさす。
「なあんだあ。バレてたのか」
一同笑った。
「そうだ。マザランの城館からこんなものをもってきちゃったんだ」
ジャンは一冊の革表紙の本を取り出した。
「だまって持ってきちゃっていいのか?」たしなめるダルタニャン。
「いいんだ。マザランだって税金泥棒しているし」
「何の本なんだ?」アラミスは尋ねる。
「うーん。それが、ラテン語だし読めないや。でもいろいろ図が書いてあって発明の本みたいだから面白そうだと思ったんだ」
ジャンはアトスに本を渡した。
「アタナシウス・キルヒャーの光学の論文だよ」アトスはぱらぱらとめくりながら言った。
「で、ジャンは読んでもわかるのか?」
「いいんだよ。スカロンさんに相談して読んでみるんだから」
「そのうち挫折したら枕代わりに使えるじゃないの」とコンスタンスが言った。
一同また笑いに包まれた。
「まあ、今回は皆二つの陣営にわかれて大変だっただろう」ボナシューは言った。
「わたしは殆どやることがなかったのよ」コンスタンスは少々不服そうに言った。
こうして、ボナシュー宅の夜は更けていったのであった。


第24話
復讐鬼編終わり。

fig. サン・ドニ大聖堂
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Saint-Denis_-_Basilique_-_Ext%C3%A9rieur_fa%C3%A7ade_ouest.JPG


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