十年後!

BACK | NEXT | INDEX

  第13話 イギリスから来た男  


「宮殿がもぬけの殻だと気付いた民衆どもは、今頃さぞかし大騒ぎしていることでしょう」
マザランは、サン・ジェルマン・アン・レーの広い幾何学形に刈り込まれた庭園をみやりながら、太后に言った。
「いずれにせよ、これで陛下も安眠できることでしょう」
アンヌも浮かない顔で答えた。
「あと数時間でコンデ大公の軍隊が到着します。そうすれば我々も百人力です」
マザランはうってかわって明るい声で、太后に報告した。
「コンデ大公の軍勢でもってパリを包囲します。ブルッセル釈放で浮かれている暴徒どもに、目にものみせてくれましょう」
「我々に忠誠を誓う貴族たちは無事に到着できていますか?」
太后は心配そうに尋ねた。
「はい。パリの城門での取り調べは厳しくなる一方ですが、ぞくぞくと城や近くの宿屋に到着しています」

城の控えの間では。
「それで、ロンドンでは首飾りを狙うミレディーが、ロンドン塔を脱出して…」
ポルトスがぶどう酒を片手に酔っ払いながら、サンドラスを前に語っていた。
「へええ。ダルタニャン隊長はかっこいいなあ」サンドラスは紙に懸命にその話を書き写していた。
「ミレディーってどんな女ですか?」
「ああ、美人だが恐ろしい女だ。目の下には、なきぼくろがあって、髪はブルネット。笛を吹いて動物たちを操るんだ」
「魔女ですね」
「魔性の女でもある」
「隊長に惚れていたんですか?」
「さあな」
「そうだったら話が面白くなりますよね」サンドラスは急に何か思いついたようにペンを走らせた。
そのとき、ドアが開いて、男がひとり入ってきた。
「ダルタニャン殿に至急お目にかかりたい」
男の姿を見てポルトスは叫んだ。
「パトリック殿!」
「これは、ポルトス殿。お久しぶり」
「一体どうしたんだ?」
「アンリエット王妃のお供でパリに着ています。このたびアンリエット王妃とチャールズ王太子殿下は逃げ遅れてパリに留まっておられます。お力をお借りしたくここを訪れました」パトリックは帽子をとった。
「わかった。ダルタニャンは今マザランのところだ。戻ったら伝える。どこにいるんだ?」
「近くの宿屋の孔雀亭に部屋をとってあります」
パトリックは握手をしてポルトスと別れた。

サン・ジェルマン・アン・レーの近郊の宿屋は、パリから避難してきた宮廷の貴族の従者たちでごったがえしていた。古くからの城塞に、フランソワ一世が手を加えた瀟洒な城館は、拡張中のルーブル宮殿ほど収容能力も大きくはなかった。
「銃士隊長のダルタニャン殿が来たら取り次いでもらいたい」
パトリックは宿の主人に声をかけた。
「2階の部屋のジョナサン・パトリックだ」
「旦那イギリス人ですかい?」
「ああ、所用でフランスに来ている」
「にしても達者なフランス語は話しますなあ」
「十年ほど前に、アンリエッタ様のご成婚のお話をまとめるのに、バッキンガム公のお供でフランスに来たことがありましてね。バッキンガム公の死後はアンリエット王妃にお仕えしています」
「イギリスは今内乱で大変なことになっていますよね。他の宿の客にもイギリスの方はいるんですよ」
パトリックと宿の主人との会話を、部屋の隅で聞き耳をたてている男がいるとは、二人は気づいていなかった。

トントン、と2階のパトリックの部屋がノックされた。
「ダルタニャン殿でしょうか?」
ドアを開けると、見知らぬ男が立っていた。
栗色の質素なカプチン会の修道服、刈り込まれた短い髪、緑の目の若い男だった。
「ジョナサン・パトリック殿」
男は生粋の英語で尋ねた。
「海の向こうで同胞に会えるとは嬉しいものですね。失礼ながら、先ほど宿の主人とのお話を小耳にはさんだものですから…。祖国が内乱で真っ二つに割れているときに、パリに来てみたら今度はこの騒ぎで途方にくれていたんです。ちょっとお邪魔じゃなければお話などさせてもらってもいいですか?」
若い修道士は屈託なく、警戒心を感じさせないように言った。
「ええ、どうぞ。こちらこそ、同郷人にお会いできてなによりです」
パトリックは部屋に招きいれた。
「あなたは私よりもフランスのご事情に詳しいでしょうし。十年前にも来たことがあるんですよね」
「ええ、最後に来たときは、バッキンガム公暗殺の知らせをお伝えしに…」
「ほう、それは重大なお役目ですね」修道士は身を乗り出した。
「チャールズ一世陛下直筆の下手人の処刑命令書を持ってきたんです」
「何故フランスまで?」
「下手人はイギリス女だったのですが、フランスに逃亡していました」
「女?」修道僧の目がきらりと光った。
「ミレディー・ド・ウィンター、本当の名前かどうかわかりません」
「それで、女は処刑されたのですか?」
「ええ、国王の銃士隊の四名と私が立会い、処刑されたことを確認しました。私はその証拠である髪の毛をイギリスに持って帰ったのです」
「四人の銃士?」
「ええ、アトス、ポルトス、アラミスの三銃士と、今は銃士隊長のダルタニャン殿です」
「五名の男がひとりの女を処刑したということですか」
「大げさだと思わないでください。何せその女は、催眠術で動物を操り、怪しげな薬を使い、短刀を懐に忍ばせ、バッキンガム公を暗殺したのですから」
「でも高貴な生れの女だったのでしょう」
「貴族の私生児だったと聞いています。でも何故あなたがそんなことを聞くのです?」
若い修道士はしばらくの沈黙のあと、口を開いた。
「私の名は、ジョン・フランシス・ウィンター」
「ウインター卿の?」
「でも私生児なのです。この姿を見ればわかるとおり今は修道士です。ウインター家の正嫡子が途絶えたあとも、国王チャールズは私を認定しなかったのです。これをごらんください」
男は懐から小さな袋を取り出した。袋の中を開けるとひとふさのブルネットの髪が出てきた。
「この髪はあなたがイギリスに持ち帰った女の髪ではありませんか?」
若い修道士はパトリックの顔の前に髪の毛をつきつけた。緑の目が冷たく見開かれ、その下に泣きぼくろがあるのが認められた。
「ということは…」
「この日が来るのを十年間待っていた…」修道士は興奮を抑えながら言った。そして懐からキラリと光る短刀を取り出した。
短刀をにぎりながら、じりじりとパトリックににじりよっていく。
「待て、ミレディーは暗殺者だ。正当な裁きだ!」
パトリックは立ち上がった。
「正当な裁き?今や王冠を失ったチャールズの裁きにすぎない」修道士は叫んだ。
修道士はパトリックの左胸に飛び込むと、短刀を振り下ろした。
「これが私の裁きだ!」
パトリックは、あっという小さな叫び声を発するとその場に崩れ落ちた。

「銃士隊長ダルタニャンだ。パトリック殿をおたずねしたい」
孔雀亭にダルタニャンが入ってきた。
「二階のつきあたりの部屋だよ」宿の主人が気前よく答える。
階段を上って二階の部屋にたどり着くと、ドアを開けた。
すると、床一面血の海で、ひとりの男がうつ伏せに倒れていた。
「パトリック殿!」
呼びかけに男はかすかに動いた。
「誰にやられたんです?」ダルタニャンは瀕死のパトリックに駆け寄った。
「ミレディー…」荒い息の下からとぎれとぎれに言葉を口にだした。
「何だって?ミレディーはもう死んだ」
「ミレディーの仇…」
「復讐なのか…?」
「緑の目の修道士だ…」パトリックはそれだけ告げるとがっくりと肩を落とした。
「パトリック殿!パトリック殿!」
パトリックはダルタニャンの必死の呼びかけにも応じず、絶命し果てた。


サン・ジェルマン・アン・レー城では、にわかごしらえのマザランの執務室にダルタニャンは通された。
「ダルタニャン君。私が君を呼び出したのは他でもない。重要な使命があるのだ」マザランいつになく上機嫌で言った。
「この手紙を持ってイギリスに渡ってもらいたい」
マザランは厚くくるまれた手紙の封筒を取り出した。
「それでは、陛下のご身辺の警護は…?」
「つい今しがたコンデ大公が到着した。これから十万の軍勢でもってパリを包囲する。なに、三か月も兵糧攻めにすれば、自然と暴徒どももおとなしくなるだろう。それから一気に城内に突入してルーブル宮を奪い返す。したがってしばらくの間ここは大丈夫だ。それよりも一発触発のイギリス情勢の方が気にかかる」
「どなた宛に手紙を持っていけばいいのです」
「将軍クロムウェル殿に」
「クロムウェル殿ですと…?」
「ダルタニャン君。外交というのはね」マザランは明るく言った。「国益を考えて行うものなんだ。目下のところイギリスで権勢をふるっているクロムウェル軍を認めておけば、フランスに余計な争いの種を持ち込むことはない。そうでなくてもこっちは大変だからね」
「わかりました。私とデュ・バロンで赴きます」
「よかろう。イギリスからの使者が来ている。この男がクロムウェル殿のところまで連れて行ってくれよう」
マザランは部屋の隅にいた男を手招きした。
「将軍クロムウェル殿の参謀、モードント殿だ」
栗色の修道服を着た男はにこやかに挨拶した。
「こちらは銃士隊長ダルタニャン殿だ。使者としてイギリスに一緒に赴くことになる」
「ダルタニャン殿、とおっしゃりましたかな」モードントの目がきらりと光った。
「ああ、よろしくモードント卿」
「モードントで結構です。本名ではありませんがそう呼ばれています」男は如才なく言った。
ダルタニャンとモードントが、マザランの部屋を退出したときに、廊下でサンドラスとすれ違った。
「ダルタニャン隊長、そのお方です。僕とコンスタンス嬢はこのお方のおかげでパリを脱出できたんですよ!」
サンドラスは修道士の姿を認めると思わず叫んだ。
「これは、ご親切に」ダルタニャンはモードントと握手をしようと手を差し出した。
そのとき初めて相手の目をまじまじと見た。緑の目の下に泣きぼくろがあるのに気が付いた。
「緑の目の修道士…!」
ダルタニャンは動揺を隠せずにつぶやいた。
「銃士隊長ダルタニャン…」
モードントも押し殺した声でつぶやいた。

パリのサン・トノレ城門では、再び日が暮れようとしていた。
跳ね橋を引き上げる直前に、ダルタニャンは、堀の外から、城門のジャンの姿を認めて手を振った。
「ジャン!」ダルタニャンは馬の上から叫んだ。
「ダルタニャン!」ジャンも跳ね橋の内側から手を振った。
ジャンはダルタニャンに駆け寄った。
「この間のことは恩に着る。コンスタンスは無事だ。今サン・ジェルマン・アン・レーにいる」
ダルタニャンは声をひそめた。
「これから僕とポルトスもパリを留守にする」
「長いのか」
「三か月もたてば戻って来れると思う。もし、三か月もたって戻ってこれない場合、そして、三か月もたっても情勢に動きがない場合、ボナシューさんとカトリーヌさんを連れてパリから逃げるんだ」
「どうして?」
「理由は言えない」ダルタニャンのいつになく真剣な様子に気おされてジャンは答えた。
「わかったよ」
「元気でな。ジャン」
「ダルタニャンこそ、気を付けてね」
ジャンは、サン・トノレ城門の跳ね橋があがるまで、ずっと手を振り続けていた。
心は、兄弟のように一緒に冒険をした子供の頃に戻っていた。


第13話 終わり
BACK | NEXT | INDEX
inserted by FC2 system