十年後!

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  第5話 消えた修道院長  


ルーブル宮殿の水辺のギャラリーでは、アンヌ太后がセーヌの流れを見つめていた。
ふと、物音がして振り返ると、壁の隠し扉が動き、緋色の衣服の枢機卿があらわれた。
「マザラン」アンヌはつぶやいた。
「太后殿下。高等法院からの決議がありました」マザランは続ける。
「彼らは、国王の課税を制限する二十七条の宣言を我々につきつけてきました。宣戦布告です」
「課税に対する反乱は、アヴランシュ、カーン、ルーアンにも広がり、民衆は徴税請負人を襲っています。しかしながら、国庫はすでに空で、今後二億リーブルの減収を見込まなくてはなりません」
「彼らは王権を縮小する気なのかしら」アンヌは弱々しく言った。
「縮小されるわけにはいきますまい」マザランは力を込める。
「わたくしたちに何ができるでしょう。ジュール」
「アンヌ…!アンヌ…!」マザランは突如として太后の手を取った。
「弱気になってはなりません。ルイ十四世陛下の将来のためにも。わたくしの心は永遠にあなたの下僕。このマザランがおそばにおります」
「では、どうするというのです」
「高等法官のブリュッセルを召喚します。懐柔できるかもしれません」
「もし、もう手遅れでしたら?」
「そのときは、武力行使です。王権の威信を示さねば」
マザランは太后の手に口づけした。
「ああ、どうか。あなたが苦しむ顔を見るのは何よりもつらいのです」
「ありがとう。マザラン。わたくしはもう寝ます」
「殿下。わたくしはまだ仕事がございます。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
秘密の扉から、マザランは消えた。
もうすでに、宰相と太后が、お互いの私室を行き来する仲だということは、秘密でもなく、公認の事実となって久しかった。

バスチーユ監獄。教会の午後の鐘が一斉に鳴り響いた。
ローシュフォール伯爵は、落ち着かない様子で独房の中を歩きまわっていた。
扉の鉄格子の向こうに、看守が通り過ぎる。午後の巡回だ。
それが終わると、壁の向こうの隣の独房に聞き耳をたてた。
ふと、そのとき、鈍い音がして、壁の石のひとつが外れた。
「伯爵。ロシュフォール伯爵!」隣の独房から囁き声が聞こえた。
「ボーフォール公爵殿下」ローシュフォールは答えた。
「今朝、届けられたノワールモン親父の店のパイの中に手紙が入っていた」公爵がささやく。
「脱獄は聖霊降臨節に計画されている。前日に武器が届くことになっている」
「わかりました」
「そうしたら、計画通りだ」
「了解です」
伯爵は、再び看守が戻って来る気配に気づくと、慌てて積み石を元の位置に戻した。

旧トレヴィル邸の執務室で、ダルタニャンは腕まくりをして書類の整理をしていた。トレヴィル殿が収集した書籍は、古代の軍記ものの翻訳から最近の会計記録まで雑多にわたっていた。
「おーい、この書類の山はあっちの部屋だ」
「こういうことは俺にまかせてくれ」
ポルトスは力まかせに本棚ごと持ち上げて移動した。
「あれ?おかしいな」ダルタニャンが声をあげる。
「どうした?」
「1620年から26年までが欠けている。隊士名簿と支払記録いっさいの書類がない」
「ちょうど俺たちが入隊したころだ」
「前はあったはずなのに、どこに行ったんだろ」
「まあ、そのうち出てくるさ」
そのとき、廊下からバタバタと足音がして、サンドラスが入ってきた。
「隊長。先日サン・ドニ門の検問で捕まった、火薬を積んでいた馬車のことですが」サンドラスは続ける。
「確かにシュヴルーズ公爵家のものです。荷送人のことがわかりました」
「それで?」ダルタニャンは問いかえす。
「ノワジー村の女子カルメル会修道院、デルブレー修道院長」
「火薬運びの仲介人は尼さんだと?」ポルトスが問い返した。
「元々修道院はシュヴィルーズ公爵家の所領です。その修道院長は6年前に公爵夫人自らが任命されています」
「6年前か」ダルタニャンが手元の書類を集めながら言った。
「トレヴィル殿の書類も6年前が最後だ」
「そうだ、その年にトレヴィル殿は失脚し、俺たちはばらばらになった」ポルトスもつぶやいた。

ノワジー村、女子カルメル会修道院の厨房の離れにあるパン焼き竈では、煙が立ち上っていた。
今日は日課として一週間に一度のパンを焼く日であった。充分に発酵の終わった丸い生地が、長いへらに乗せられて赤々と燃える竈の奥に押し込まれていく。
と、そのとき、修道女たちの間を縫って、村の少女が入り込んできた。
「修道院長様、修道院長様。大変です!」
歳のほどは14.15歳ごろの少女は、頭髪を白い頭巾でくるみ、茶色の質素なスカートをはいていた。
デルブレー修道院長は、竈の火かき棒をしながら手に振り返った。「何事です?」
「髭の紳士がいないの」少女は叫んだ。
「髭の紳士?」そういえば、森のはずれのあずまやに住む、貧しいが優雅な物腰のフィリップのことを、村人たちは親しみをこめて、髭の紳士と呼んでいたのだ。
「もう3日も戻らないの」
修道院長は少女のあとに続いた。

森のなかのあずまやでは扉がそのまま開け放たれたままだった。
家の中は、フィリップが生活していたままの様子だった。まるで、ちょっとそこまで散歩に出て帰らなかったかのように。
「羊の赤ちゃんの世話をしに毎日来ていたの。そしたら、ある日突然髭の紳士がいなくなっていた」
村の乙女は述べる。
「何も変わったことは起こっていない」
修道院長は、家の中を見回しながら言った。
「ねえ、どこに行ってしまったのかしら?」少女は半泣きになった。
「どこに?」少女の問いに答えながら、修道院長は自問した。
ルイ13世の双子の弟、生まれてから日陰の身で育ったフィリップにはどこにも行くところがないのだ。
修道院長の目は、ふと、扉の木の端に何か見慣れぬものがひっかかっているのに、気づいた。
そっと指でそれをつまんでみる。
それは、赤い羽毛の切れ端であった。
しばらくその羽毛を眺めてだまっていた修道院長は、やがて何かを決心すると、少女の方に向き直った。胸につけてたロザリオを取り、少女の首にかけた。
「ここで見たことは誰にも口外してはなりません」 
少女の肩に手をかけて続けた。
「ここの主が帰って来るまで羊の世話をお願いね。神様があなたをお守りくださいますように」

その夜、デルブレー修道院長は村から忽然と姿を消した。厩舎から、かねてから長く乗っていた馬が一頭消えていた以外は、何の手がかりも残さなかった。何故、何のために、どこに行ったのか、修道女たちも、村人たちも誰も知るよしもなかった。

「ポルトス聞いてくれ」
銃士隊の執務室に入ってきたダルタニャンは帽子を脱ぎながら言った。
「ノワジー村の修道院に捜索に行こうとしたんだ」ダルタニャンはポルトスに向かって続ける。
「そしたらマザランに止められた」
「パリ城内の火薬の運び元を徹底的に洗えといったのはマザランじゃないか」
「ああ、修道院長の逮捕状も留保されたままだ」
「全くわけがわからん」
「その代わりに、高等法官のブルッセルを宮廷に召喚するように命令された」
「高等法官を逮捕するだって?それはちとやりすぎじゃないか」
「逮捕状は出ていない。ただ召喚するだけだ」
「もし本人が拒否したら?」
「武力でも連れて来い、とのことだ」
「逮捕とどう違うんだ」
「実質的に同じさ」ダルタニャンはそう言って、銃士隊の制服に手をかけた。
「明日夕方に出動する」
ポルトスはうなずいた。
離れ離れになったかつての仲間たちが、思いもよらぬ形でまたパリであいまみようとは、このときのダルタニャンには、想像もできなかった。



第5話終わり




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